もうすぐ冬至ですね。
今年の冬至は、12月22日 午前1時28分です。

古代の人は、一年が365日とわかっており、
昼の時間が一番長い日・夏至と、短い日・冬至、
それに昼夜の時間が同じになる春分、秋分の日もわかっていて、
この4日がそれぞれの季節のちょうど真ん中になるように、
四つの季節に切り、それぞれをまた三つに分けたのです。

そして、12ヶ月を区切り、それぞれの月をおぼえやすく、
動物にたとえたのですね。

もちろん、暦は十干と十二支の組み合わせなので、
空間を表す十干のほうも、「木・火・土・金・水

甲乙は「木」で、陽の甲は、木の兄(え)、陰の乙は、木の弟(と)
丙は、火の兄(ひのえ)、丁は、火の弟(ひのと)
戊は、土の兄(つちのえ)、己は、土の弟(つちのと)
庚は、金の兄(かのえ)、辛は、金の弟(かのと)
壬は、水の兄(みずのえ)、癸は、水の弟(みずのと)
というように、
陽と陰を、兄と弟にして、
みんながわかりやすく、そして、覚えやすくしているのですね。

さて、
その時間を表す十二支は、植物の成長の様子を漢字で表しています。

種から芽が出て、成長して、実がなり、収穫して、また、種になる、
それで、ちょうど一年ですね。
だから、その時々の
植物(農作物)の一年の様子を表せば、一年の区分けができるのです。

それが、「子・丑・寅・卯・・・」という十二の漢字なのですね。

では、残りの五つですが・・・・

農作物を収穫するのに、まず、種をまきます。
植物の最初は、「」です。

種子(しゅし)ですね。種は「た」ですね。
 それは、植物の)でもありますね。
 だから、「」も「」という読みになります。
 そして、
「子」が、十二支の最初に来るのは、この理由からですね!

ナルホド! (^0^ゞ ラジャ!


二番目に来るのが、「丑」。①で解説済みですが、

この漢字は、
:種の殻のなかで、芽を出すために伸び始めているけれど、
 殻をまだ打ち破れないで、曲がっている様子を表しています。

時期も、1月5日から節分までの時期なので、寒いですから、
まだ種は、地中で眠っているころですね・・・・


そして、立春の2月4日からが、「寅」
:硬い殻を打ち破って、
 芽が土のなかで伸びてきている様子を表した字

種の硬い殻を打ち破らなければならないので、
その前進力に気迫が必要ですね。
「寅」という字も、を両手で持ってまっすぐのばしている形になっていますね。
だから、気迫の「虎・トラ」


この次の、3月6日からの一ヶ月が「卯」です。

:芽が土の上に顔を出した双葉の状態を表した字
 万物が芽を出し、繁茂しようとしている時期です。
 昼夜の時間が同じ、春分の時期です。

〉〉〉春の中心で、柔らかい草木です。
 組織を作るのが得意で、平和な時代には体制側で活躍し調和します。
 一方、動乱の時代になると、反体制側につき、アウトローとなります。
 時代観察の能力に優れ、政治経済の世界で活躍します。
 外柔内剛で、波乱に際して、何度でも立ち上がる粘り強さがあります。
(『東洋占星学Ⅰ 十二支』上田享矢より 以下同じ)

「卯」とは、肉を二つに切り分けた様を象っている漢字だそうですけど、
植物が芽を出すと、双葉になりますが、
その双葉の、二枚の葉っぱの形に見えませんか?

それに、
まだ短い草の間から顔を出している、うさぎの耳に見えませんか?
また、上記の「何度でも立ち上がる」って、うさぎだと思いませんか?
「何度でも」かどうかはわかりませんけど・・・・

うさぎ2 

♪d(´▽`)b♪ウン、似テル似テル

 うさぎ3


さて、次は「辰」・・・・

:二枚貝が、その殻から舌を出している状態を表した字で、
 植物が伸び始めている状態
 
4月5日からの一ヶ月で、春の終わり(晩春)のころです。
草木は、しっかりと立っ、盛んに伸びて行く時期です。

「シン」という読みの「」を「たつ」と読むのは、
草木が、しっかりと「立つ」から来ているのではないでしょうか?

そして、「たつ」という動物は、
」「」であり、空想上の動物です。

辰2 


なぜ、この月に十二支で唯一の空想上の動物がはいったのでしょう・・・・

【辰土の解説】
〉〉〉一気に春の季節がまとまる。
 財運に縁が深く、一代の栄華となるか貧となるかのどちらか。
 内面の情熱を発揮しにくく心の葛藤がある
 内面と外面が不均衡であるために、最高にも最低にもなり、
 最高になれば時代の寵児となる。
 男性的。 (同上) 

(○´^`○) ウーム・・・

算命学には、「格法」というものがあり、
壬騎龍背格」というのがあり、
この格をもっていたのは、芥川龍之介です。

壬騎龍背格」とは・・・
〉〉〉幸運中の不運芸術の才能を持つ。
「龍の背中に乗っている壬」の象意。
伸びる時は、一気に伸びるが、
幸運が続くとそこに不運も内在し、
成功すればするほど、負担が増えていく。
そのために幸運の最中にそこから逃げ出したくなるという
蒸発の格」である。最悪の場合、自殺となる。
『東洋占星学 格局法』より 上田享矢


芥川龍之介 明治25年(1892)3月1日生まれ
  
  

龍之介という名前は、
「辰年・辰月・辰日・辰の刻に生まれたことに由来する」といわれているが、
実際は、辰月ではなく、寅月生まれですが、

〉〉〉龍之介が生まれてすぐに、母親は発狂
 母の実家(芥川家)の養子となる。
 東大在学中(大運)から小説を書いていた。
 東大を卒業して、漱石に認められ、
 作家の道に入ったのは、24歳・年。
 35歳で自殺。自殺の理由は「将来へのぼんやりした不安」
 成功すればするほど、不安定になる。
 「蜘蛛の糸」の心境。 (同上)

ここまで「辰」がそろうと、
「壬騎龍背格」の意味がそのまま出るのですね。

「辰」の説明に、
「内面の情熱を発揮しにくい」
「心の葛藤がある」
「内面と外面が不均衡」というのも、頷けますね・・・・

(゚ー゚)(。_。)ウンウン

四月から五月初めのこの時期って、
ほわっとあったたかくて、
どういうわけだか浮き浮きした気分になったり、
でも、それに伴うものがなくて、むなしい気分もしたりしますよね。

五月病になって、自殺が多いというのも、辰月のせいかな・・・

と、推測してみましたが・・・・
わかりませんけど・・・・

だけど、「辰」の説明にあった「財運」ですけど、

そう!
「お金」って「のものですよね?

紙に印刷されているものを、一万円、千円、と思うのは、
日本政府がその紙に、その価値を保証しているからで、
その信頼がなかったら、それは単なる紙切れでしかありません。
その紙切れ自体は、一万円しません。

100円玉のコストは、約25円です。
逆に一円玉は、2~3円かかるとのことです。
でも、1円は1円ですし、100円は100円。

かと思うと、エラー硬貨や、エラープリントの紙幣が、
ものすごい値段になっていたり・・・


そうなんです!

この世には、「実体」のあるものだけではなくて、
「虚」のものもあるのです。

小説も、テレビの映像も、サービス業も、
すべて「虚」=作り物・想像上のものです。

(゚0゚*)オオ!ソウダ!(・0・。) ソノトオリ!


「十二支の中に、空想上の生き物が存在するのは、なぜ?」

それは・・・・

この世にあるものは、実体があるものだけではない!
空想上=「虚」のものは、実際にこの世にあり、
その事実を、十二支の暦のなかでも教えてくれているのかもしれません。

いや、もしかすると、
辰月というのは、ほんとうに、虚の月???


十二支、まだ、途中ですが、
調べれば調べるほど、その意味の深さに驚かされます。

残り2つと、なぜ、猫がいない?の謎に次回、迫りましょう。
乞う、ご期待!


十二支になぜ猫がいないのでしょう・・・

十二支の動物は、無学の庶民に浸透させるために動物を割り振ったのだが、
その順番や選ばれた理由は定かではない、とのこと。
『語源由来辞典』

子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥を、
ね・うし・とら・う・・・・と呼んでいますが、
本来の読みは、
子・シ、丑・チュウ、寅・イン、卯・ボウ、辰・シン・・・
であって、
ネズミや、ウシ(牛)や、トラ(虎)ではないのです。

では、なぜ、それぞれの動物が当てられたのか・・・

当ブログは、
西洋占星学の十二星座のそれぞれの名前、
牡羊座・牡牛座・双子座・・・といった名前には意味があり、
それぞれの星座の名前は、
それぞれの星座の端的な特徴があらわされたものではないか、
ということを解き明かしたくて、始まったブログですが、

東洋の十二支のほうも、何か意味がありそうな気がしますね。

(゚∇゚*)ウン!何カアリソウ・・・

その前に、
十二支とは何なのか、ですね・・・・

今から四千年前の人々は、
宇宙の法則を決定する時間の流れを考察した、そうです・・・・

そして、宇宙=この大自然は、
時間と空間からなり立っているものであるということに気がついたそうです。

その時間の法則ですが、

木星が太陽の周りを一巡するのにかかる時間が12年
一年には四季があって、
それぞれの季節を始めと中と終わりで三分割すると12ヶ月で、
一日が12刻=24時間、1時間が12の倍数の60分というように、
12進法は自然の法則を表す数字として、生活に定着していったそうです。

(*゚.゚)ホ・(*゚。゚)ホーーッ!!

それでは、まず、
動物の名前がそのまま発音されている
丑、寅、午、未、申、酉、戌について、見ていきたいと思います。

テキストは、上田享矢先生の
『東洋占星学Ⅰ』「陰占の基本 十二支」を用います。

:音はチュウ
 指先を曲げてものをつかむさまを象る(『角川新字源』)
 芽が出かかっているが、
 まだ曲がっていて地上に出ていない状態、伸びきれずにいる状態を示す

丑月は、1月で、立春前の、冬の終わりの一ヶ月です。
丑は、本元が己土で、冬の湿った柔らかい大地です。
ですから、表面は柔軟なのですが、
まだ、冬で凍っているので、中は固い状態なので、
内面は、剛情で自我が強い
また、行動は鈍く、(だって、寒いもん)
慎重で思慮深いが、垂直思考のため、融通が利かない
平和を好み、動乱を嫌うが、動乱にあっても自己を見失わない。
保守的で、この保守性が忍耐力を生み、
時機到来を待てるので、好機を得て、成功できる、とのこと。

というのが、「丑」なのですが、

この生格を一番もっている動物は、「」だと思いませんか?

牛1 

西洋占星学の牡牛座の性格にも、相通じるものがありますね。

(゚▽゚)(。_。)ウン! ワカル気ガスル・・・


:音はイン 本元は甲木
 矢を両手でまっすぐ伸ばしているさまを象る
 「引き伸ばす」の意味。

寅月は立春(2月4日)からの一ヶ月で、萌え出た芽が伸びる時期で、
万物が出発する場所で、前進するところだそうです。
守りが固く、独立独歩で、内面に前進の気迫がある。
観察力、洞察力に優れ、大局的な情愛の深さを持つ。

独立独歩で、群れを作らない動物、そして、気迫のある動物・・・
獲物を捕まえるために、じっと様子をうかがう(観察力・洞察力)・・・
と言えば、「」!

虎 

この性格は、猫も持ちますが、
「気迫」というところで、「虎」でしょう。 


:音はゴ
 もちをつく杵(キネ)の形を象る
 縦棒と横棒が交差するので、午前と午後の交差点を正午という。
 太陽が頂点に昇る時間が正午。
 丙火=太陽支配の時期です。

午月は6月6日からの一ヶ月間で、
夏至は、ちょうど午月の真ん中の6月21日あたりです。
万物が盛大になって、木の枝がおおいに伸びる時期で、
昼が最も長くなるのがこの時期。
激しい情熱と直情径行で、烈火の性格。
内面も外面も明るく、それが、豪放で開放的な性格を作り、
正直で、人から好かれる

馬 

馬は、本当はとても臆病な性格の動物です。
ですけど、この写真のような馬の駆け抜ける様子を見て、
古代の人も、
夏の中心で、陽の気が最高になるこの時期にぴったりだ、
と思ったのではないでしょうか?


:木に枝が出た様子を象り、木に枝が茂って暗いさまを表している
未は未土で、本元は己土で、夏の終わりです。
未月は、7月7日からの一ヶ月で、植物は実をつけ始める

内面は陽で、外面は陰となる。
忍耐強さと剛情な性格
他人との妥協を許さず、他人が自分に和するまで、粘り強く待つ。
平穏で波乱が少ない人生
祭り、祝い事、遊びに縁がある

祭司において、生け贄に使われたのが羊・・・
 
羊 


:稲光が走るさまを象る。読みは「シン」
万物が締め付けられ、硬くなる。8月7日からの一ヶ月。

武官。剛金の質で、動乱の中での闘争。
勇猛果敢に闘って、名を挙げる。
迅速で積極的な行動の中で、成長する。
短慮で、前進する行動力が目的と合えば見事だが、
合わないときは自滅し回復できない。
多芸多才で、実行すればできる。
人生が多岐にわたることがある、まとまりがなくなりやすい。
私情に流されないので、情愛に欠ける場合がある。

三蔵法師を助けて、旅する孫悟空は猿ですね。
孫悟空 
それに、さるかに合戦の猿は、情愛に欠けてますね( ^o^)ノ
さるかに合戦
ネ!酷いね!


:酒を醸す壺の形を象る 読みは「ユウ」
万物が実り、収穫の時期。成長が終わり、冬の時期が始まる。
酉は、方角は西で、酉月は秋分の時期。9月8日からの一ヶ月。

申が武官に対して、酉は文官
内面は直情だが、外面は貴品を尊ぶ。
気位が高く、他者を低く見るところがある。
法律・集団・権力に依存する。
苦労することで名誉が高まる。
実より名を取る生き方を選ぶ。

酉は「取り、穫り」で、収穫の意味から、
音が同じ「鳥」が当てられたのではないか、と、思います・・・・


:小さい「戉(まさかり)」の形 読みは「ジュツ」
戌月は10月8日からの一ヶ月間。

収穫(酉)の時期を引き継いで万物が衰える。
陽気がわずかに残る季節。
内面に万物を収斂し、外面に放出する準備をする。
熟したものを最後まで全部穫り入れる。
商売に才能を発揮し、財運に恵まれる。蓄財の才能。
戌は商人神であり、小財は常に回る。
愛想がよく好感を持たれ、社交上手で機転が利く

犬 

身近な動物のなかで、
にこにこ愛想のいいのは、やはり犬でしょうね。

12支のうちの、動物名になっているもの7つ、見てきましたが、
それらは、全く意味や関連性がない動物ではなくて、
それぞれの特徴に合う、
または、その特徴に近い動物名が割り当てられていることがわかりました。

次回は、残りの、子・卯・辰・巳・亥の動物との関連を見ていきます。
子(ね)はネコではなくて、なぜネズミなのでしょうね?


今上陛下と、そして陛下を支えてこられた皇后陛下
お二人の仲むつまじいお姿は、まさに日本人の夫婦像の模範でしょう。

天皇 皇后1 

天皇 皇后 


美智子皇后陛下

1934年10月20日 am7:40ご生誕


         貫索星 天印星  

     玉堂星 調舒星 調舒星

        天恍星 貫索星 天印星


太陽・天秤座  月・魚座

金星・天秤座  火星・乙女座



  

   というように、

甲戌が三つ並ぶと、一気成生格となります。

この甲戌が3つの、一気成生格の意味とは、

平民から貴族になる宿命をもつ命式で、

「凡夫入城」と言うそうです。


皇后陛下は、日支の「戌」が「子」になっているだけですので、

これに準じます。



皇后陛下が嫁がれた1958年(昭和33年)は、


〉〉〉皇太子妃は貴族か五摂家 (伯爵以上)といった

特定の華族から選ばれるのが習わしとされており、

平民から妃を迎える、ということが考えられなかった時代であり、

香淳皇后、常磐会会長の松平信子、秩父宮妃勢津子、高松美也妃喜久子、柳原白蓮ら、

旧皇族・旧華族らに強く反対された。

特に、秩父宮妃勢津子の実母である松平信子は

当時、宮内庁内で絶大な発言権と政治力を有しており、

その権勢は時の皇后をも凌ぐといわれ、

「影の昭和の女帝」または「昭和の妖怪」と恐れられていた。

『入江相政日記』によると、

「松平信子が中心となって御婚儀反対を叫び、愛国団体をも動かした」とあり、

美智子の正家である正田家自体に圧力をかけていた。

更には、美智子が2人目の子を流産してしまった際には、

「畏れ多くも皇太子殿下の御子を流すとはけしからぬ」などと自身から罵詈雑言を浴びせていた。

皇族久慈宮家出身の皇后良子(当時)は、夏御殿場に高松宮妃、秩父宮妃、松平信子らを招き、

東宮様の御縁談について平民からとは怪しからん。」

と当時の侍従と数時間懇談し、妃の変更を訴えた。(wikipedia)


(≧ω≦)ウワァー、タイヘン!!


ですけど、

2600年以上も営々と続く、日本の天皇家

世界で「天皇」を名乗れるのは、日本の天皇陛下だけ、という

非常に希有な日本の皇室です。


日本国と国民を守るために行われる神聖かつ厳粛な神事を受け継ぐのが、

皇太子であり、

その妻である皇太子妃は、次の世代の天皇を生むお方です。


そうであれば、なおさら、血統を重んじるのは道理でしょう


ですが、


〉〉〉翌月の皇室会議では、

猛反対をしていた秩父宮妃勢津子も賛成し、全員一致で可決した。(wiki)


それは、やはり、

美智子皇后陛下が、平民から貴族になる命式(一気成生格)に準じる

宿命をお持ちの方だったからなのだと思います。


そして、


お二人が結ばれる縁は、

前回の今上陛下のご命式のところでも見ましたが、

http://uranaiwanko.jp/blog-entry-338.html


ホロスコープでみてみますと、


今上陛下がお生まれになった時間(アセンダント)が射手座で、

配偶者として選びたいのが、

180度反対(ディセンダント)の双子座です。


双子座は「風星座」と言い、

同じ質の星座は、天秤座水瓶座です。


皇后陛下は、太陽・天秤座でした・・・・


そして、皇后陛下の生まれた時間は蠍座で、

配偶者として好きになるのが、牡牛座

牡牛座は、「地の星座」で、

同じ質の星座は、乙女座山羊座


陛下は、太陽・山羊座でいらっしゃいます・・・・


(゚∇^d) オオー! ピッタリ!


それに、


今上陛下の日干支の「癸亥」の次にくる干支が、

皇后陛下の「甲子」です。


宇宙盤において、隣合わせの干支になりますので、

非常に縁のあるお二人だった、と言えます。


二人の赤い糸は、

お二人がお生まれになったときから結びついていたのかもしれませんね。


そして、

お二人の「癸亥」と「甲子」は、「準律音」になります。


律音(リッチン)とは、新しい生き方を定めなさい、ということです。


宇宙盤で最後の60番目の干支の「癸亥」の陛下が、

一番最初の干支「甲子」の美智子さまを皇后にお迎えなさった、ということは、


歴史ある日本の皇室に新しい風を吹かせなさい

という思し召しがあったのかもしれませんね。


陛下と皇后陛下は、国民とともにある皇室、開かれた皇室として、

前例になくとも、良いと思われることは、新しくお始めになられましたね。


国民の祝福を受けての盛大な、成婚パレードや、


陛下 成婚パレード 


皇居御殿内の産殿での出産ではなく、宮内庁病院で出産されたり、

「親子3人が川の字になって寝るような家庭をつくりたい」という陛下のご意向で、

皇室の慣例になかった親子同居を決意され、

さらに、これまでの慣習であった専任の養育係を置かなくなったり、


また、長崎県の雲仙普賢岳噴火の際には、

なんと、床に膝をついて、避難民をお見舞いなさいました。


陛下 皇后4 


膝をついて被災者と直に話をするスタイルは

今上天皇が皇太子時代にはじめたことであり、

それまでは天皇が国民の前で膝を曲げることはありえなかったそうですね。

https://virates.com/society/3318826

「あなたの中の天皇陛下のイメージが変わる、33の厳選エピソード」


そして、


陛下は80歳の誕生日に、美智子さまへの深い愛情と感謝を語られました。


「天皇という立場にあることは、孤独とも思えるものですが、

私は結婚により、

私が大切にしたいと思うものを共に大切に思ってくれる伴侶を得ました。

皇后が常に私の立場を尊重しつつ寄り添ってくれたことに安らぎを覚え

これまで天皇の役割を果たそうと努力できたことを

幸せだったと思っています」


陛下 皇后3 


陛下、そして皇后陛下、

いつまでも、仲むつまじく、

そして、ご健康であらせられてください。


続く・・・・

今上陛下が、皇太子殿下にご譲位される日が、
皇室会議において、2019年4月30日と決まったようですね。

今上陛下 明仁2 

菅義偉官房長官 2017年12月3日
『天皇陛下の御退位について皇室会議を開催』
〉〉〉特例法の施行日は、
天皇陛下の御退位と皇太子殿下の御即位がつつがなく行われ、
皇位継承に伴う国民生活の影響を考慮しつつ、
国民がこぞってお祝いするに相応しい日を選択する必要があると考えられます。
皇室会議では、こうした観点から、
(1)天皇陛下に平成31年1月7日の御在位30周年の節目をお迎えいただきたいこと
(2)4月前半は全国的に人の移動が激しく、各種行事も盛んに行われること
(3)平成31年4月に統一地方選挙が実施される見込みであること
(4)4月29日の昭和の日に続いて、御退位、御即位を実現することにより、
 改めて我が国の営みを振り返り、決意を新たにすることができること
などを考慮して、
平成31年4月30日の御退位が適当であると判断されたものと考えています。

(゚∇゚ノノ"☆パチパチパチ!!!

バブルの熱狂が終わりかけた頃にご即位なされて、
失われた20年、そして、魔の民主党政権時代を乗り越えて、
今、やっと、安倍総理のもと、明るい兆しになってきたこの日本、

その一番辛い時期に、
国民とこの日本国をしっかりとお守りいただいた今上陛下、
ほんとうに、ありがとうございます。
感謝の気持ちで一杯です。

<(_ _*)>アリガトウゴザイマス

1995年(平成7年)1月17日の阪神・淡路大震災では、
地震発生から2週間後の同年1月31日に現地に入り、
スリッパも履かず避難所の床に正座して被災者の話に聞き入られました。

陛下 阪神大震災 

この姿は日本のみならず、日本国外の新聞にも大きく取り上げられ、反響を呼んだ。
被災者に対して
「今は苦しい時があるかも知れないがいつかきっと幸福が訪れます。
それまで地震なんかに負けず頑張りなさい」と励まされると、
被災者は天皇の慰めに涙を流したそうですが、

国民のことを心から思う今上陛下

その多くの日本国民を惹きつけてやまない陛下のお人柄を、
占星学のほうから、見ていきたい、と、思います。

今上陛下 1933年12月23日 午前6時39分御生誕
癸  癸       貫索星 天胡星  
亥  酉   石門星 貫索星 龍高星 
        天将星 調舒星 天禄星

陛下の日干支の「癸亥

「癸」は癸水と言って、清くきれいに流れる水です。
」も本元が水で、
「癸」の陛下と「亥」の国民は、同質の水なので、
両者は、離れることがなく、
国民に常に寄り添っておられる天皇であられることがわかります。

また、
今上陛下は、腹(左下)と中年期(右下)に、
天将星天禄星という大きなエネルギー値をお持ちです。

今年、84歳というご高齢であられますが、
体力的にも大変な宮中での祭祀を、立派に勤めておられます。
それも、この大きなエネルギー値の星をお持ちだからこそ、だと思います。

それに、貫索星がど真ん中=主星で、二つあり、
貫索星と陰陽になる石門星もあって、
守備本能の星が5つのうち3つです。

特に貫索星は、頑固で動じない星です。
その頑として動かないお方が、日本の中心に居てくださったので、
外からの横やりにも、中からの突き上げにも負けず、
阪神大震災・東北大震災・熊本大震災、と大きな災害に遭いましたが、
それでも、日本が、ぐっと踏ん張って、再興してこられたのだと思います。

西洋占星学のほうでは、
陛下の太陽は、山羊座
生まれた時間が火の星座の射手座
そして、この太陽が、生まれた時間にほぼ一致しており、
(上昇している)ので、大変活力が出せる方です。


皇太子としてお生まれになった陛下は、
満2歳3ヶ月で、両親のもとを離れ、
赤坂離宮の東宮仮御所で、東宮傅育官によって育てられたのですが、

最初のうちは、日曜日ごとに両親のもとに帰られていたそうですが、
一ヶ月を過ぎる頃には、日曜日も
東宮仮御所で、過ごされるようになったそうです。

まだ2歳では、親のもとでもっともっと甘えたい。
東宮になる人の宿命とはいえ、
ほんとうに寂しいことだろうと思うのですが、

たった2歳で、東宮としてのお立場をわきまえられて、
寂しい気持ちを抑えて親元にお帰りにならなかったのは、

腹の天将星の大きさゆえだろうな、と、思います。

また、山羊座は、土星が守護星なので、
ストレスに強く、我慢強いのです。

また、現実重視の星なので、
自分が置かれた位置を察知して、それに添おうとされたのかもしれません。

そして、陛下のあの柔和で、やさしい感じは、
内面の月が魚座にあるからなのです。

これは皇后陛下も同じで、月の魚座でいらっしゃいます。

先月(2017年11月)、日本の最南端の与論島をご訪問になられた両陛下。
沖永良部島では、集まった300人の島民が提灯を振ったところ、
お部屋の中から、二つの提灯がゆらゆら・・・



陛下と皇后陛下、お二人が、歓迎する提灯に答えて、
ゆらされていました。
島の人たちとの、心の交流をされているのがわかり
見ているこちらも、目頭が熱くなってしまいました。

さて、
皇后陛下との出会いは、有名な軽井沢のテニスコートですが、

軽井沢 テニスコート 

今上陛下の命式の月干支(真ん中)にある「甲子」ですが、
これは、皇后陛下の日干支なのです。

 甲 甲
 戌 戌

相手の日干支を、自分が月干支に持っていると、
その人のことが大好きになってしまいます。

だから、お二人、おいくつになられても、
陛下と皇后陛下は、手をつないで歩くくらい仲がいいのですね。

明仁陛下 皇后 
 
来年は、皇紀2678年
陛下と皇后陛下が統(ス)べるこの日本に生まれ、育ってきたことは、
ほんとうに幸せなことだと思っています。
陛下と皇后陛下がいつまでもお元気でおられることを、願ってやみません。

続く・・・

織田信長といえば、本能寺の変ですが、

明智光秀がなぜ謀反を起こしたのか、その理由を、

信長の人事のやり方がまずかったのでは、と、いうのがありまして、


《人事制度で解く織田信長の天下布武》

2012/10/2 城繁幸


人事コンサルタントをやっている城氏からみると、

 

明智光秀が信長をやるしかない、と、思った理由は、

佐久間信盛、林通勝らの古くからの重臣を

本能寺の変の2年前の1580年に追放したことがきっかけではないか、というものなのです。


御説を見ていきましょう・・・・


《実は叩き上げだった信長》

〉〉〉戦国大名と言っても、実はいくつかのタイプに分類できる。

1.室町幕府の守護大名

足利将軍家に任じられた正統な大名家

武田、今川、朝倉、九州の島津といった大名家がこれにあたる。

特徴として、他の大名家をバカにして、家柄を誇る傾向がある。

そして当然ながら、自らの権威の源泉である将軍家への忠誠もあつい。


2.守護代が成りあがった大名

守護大名は偉いので、日常業務は部下に丸投げする人が多かった。

最初の内はそれでもよかったが、

権威の源泉である室町幕府がヨロヨロになってくるにつれ、

部下も「なんでこんな毎日食っちゃ寝ばかりしている人に仕えなきゃならんのだ」と思うようになるのは当然で、

やがて日本中で部下達が領地を乗っ取って独立するようになる。

三好、長宗我部、長尾(後の上杉氏)、そして織田などが代表。


3.よくわからない人が国を取ってしまった大名

室町も末期になるとなんでもありの時代になり、

守護代ですらより下の人達に乗っ取られるようになった。

守護代の側近くらいならまだマシで、

中には出自が良く分からない大名も多い。

小田原の北条早雲と美濃の斎藤道三が有名だが、

実は徳川家もここに該当する。


戦国大名にも保守的な人から革新的なタイプまでいろいろあるが、

だいたい上記の分類で上に行くほど保守的で年功序列を重んじ、

下に行くほど革新的で形式にこだわらないタイプが多い。

当然と言えば当然で、

己の実力で勝ち上がった人ほど、他人の権威はあてにしていないということだろう。


ところで、

上で織田家は守護代出身の2番目グループと書いたが、

信長についてはここにあてはまるかは微妙なところ。

実は織田家といっても色々あって、

信長はその中の清州織田家という家の、さらに家老の家柄にすぎないのだ。

要するに守護の部下の部下の部下くらいの家柄にあたる。

しかもそんな小さい家ですらすんなり世襲できず、

兄弟と血みどろの争いを経た上でようやく当主に就いている

(最終的には弟を殺害)。

要するに、

信長という人は世襲というよりほとんどゼロから実力で叩き上げた人で、

タイプとしては限りなく3番に近いということだ。


ところで、

信長の外交関係をみると、面白い事実が見えてくる。

義父である斎藤道三、

唯一の盟友である徳川家康、

初期の同盟者であり妹の嫁ぎ先である浅井長政等、

仲の良い大名はみんな3番グループに属する

一方、武田、今川、朝倉といった守護大名とは

のきなみ敵対関係にある。

恐らくは同じように実力で這いあがってきた人には親近感を抱く半面、

権威を世襲しているような人には

一種のコンプレックスを抱いていたのではないか。


【中途採用エリートの楽園】

〉〉〉さて、そんな弱小織田家だが、

信長の出現で一気に勢力を拡大していくことになる。

ここで一つの問題が発生する。

深刻な人材難だ。

もともと中小企業で細々とやっていたのが、

突然上場して従業員数が十倍になったようなものだから、

家中に人材なんているわけがない。

また、織田家は信長以外ロクな人材がいないことでも有名で、

一族もまったくあてにはならない。


というわけで、

信長は積極的に中途採用をすすめることになる。

そして明智光秀滝川一益荒木村重といった中途採用者を、

代々の家臣以上に重用していく。

また、羽柴秀吉のような身分の低い人間であっても、

優秀であればどんどん抜擢もする。

こんなところにも、

彼の型にはまらない価値観がよくあらわれていると言える。

以前も述べたように、織田家というのは

スキルを武器に大名家を渡り歩く中途採用者にとってはパラダイスだったはずだ。


【職務給型組織への大転換!】

ところで、中途採用者にとって天国ということは、

裏を返せば年功色が薄いということでもある。

近畿を制圧し、安土城を作った後になって、

信長は林通勝、佐久間信盛の二名の重臣を突然追放している。

いずれも父の代から仕えた老臣で、家中の重鎮的存在だった。

理由は、佐久間に出した書状にはっきりと述べられている。

「おまえはこれだけの地位にありながら、ほとんど働いていない。

光秀や秀吉を見習ったらどうだ」

ちなみに、

佐久間信盛は近畿地方の軍団長的存在だったが、

彼の追放後にそのポストについたのは、他でもない明智光秀だ。

本能寺の変の2年前のこと。

組織の新陳代謝のためには、

古い部分を切り捨てなければならないということだろう。

考えてみれば、これは現在の日本企業が直面する課題と同じだ。

どの経営者も腹の中では

「もう年功序列じゃいかん、年功によらず抜擢しないと組織は生き残れない」

なんてことは痛いほどわかっているが、

思い切った人事制度改革には踏み込めていない。

理由ははっきりしている。

年功によって最大の恩恵を受けているのが自身であるとよく分かっているからだ。

抜本的改革は、自らの権威をも否定することでもあるのだ。

日産ルノーのゴーン氏しかり、

(企業再建のプロと言われる)日本電産の永守氏しかり、

「外からやってきた人にしか日本企業の改革はできない」と言われる理由はこれである。

逆に言えば、

弟を殺して当主に就き、そこから叩き上げて天下統一までこぎつけた信長からすれば、

心おきなく「いらない奴」をクビにできたわけだ。


佐久間信盛 

佐久間信盛『長篠合戦図屏風』(成瀬家本)より


・・・・ここで、佐久間信盛が首になった理由が書いてある、

信長が出した19ヶ条の折檻状を見てみましょう。


一、佐久間信盛・信栄親子は

 天王寺城に五年間在城しながら何の功績もあげていない。

 世間では不審に思っており、

 自分にも思い当たることがあり、口惜しい思いをしている。

一、信盛らの気持ちを推し量るに、

 石山本願寺を大敵と考え、戦もせず調略もせず、ただ城の守りを堅めておれば、

 相手は坊主であることだし、

 何年かすればゆくゆくは信長の威光によって出ていくであろうと考えていたと。

 さて言わせてもらおうか。

 武者の道というものはそういうものではない。

 勝敗の機を見極め一戦を遂げれば、

 信長にとっても佐久間親子にとっても兵卒の在陣の労苦も解かれてまことに本意なことであったのに、

 一方的な思慮で持久戦に固執し続けたことは分別もなく浅はかなことである。

一、戦いで期待通りの働きができないなら、

 人を使って謀略などをこらし、

 足りない所を信長に報告し意見を聞きに来るべきなのに、

 五年間それすらないのは怠慢で、けしからぬことである。

一、信盛の与力・保田知宗の書状には

 「本願寺に籠もる一揆衆を倒せば他の小城の一揆衆もおおかた退散するであろう」とあり、

 信盛親子も連判している。

 今まで一度もそうした報告もないのにこうした書状を送ってくるというのは、

 自分のくるしい立場をかわすため、あれこれ言い訳をしているのではないか。

一、信盛は家中に於いては特別な待遇を受けている。

 三河・尾張・近江・大和・河内・和泉に、

 根来衆を加えれば紀伊にもと七ヶ国から与力をあたえられている。 

 これに自身の配下を加えれば、どう戦おうともこれほど落ち度を取ることはなかっただろう。

一、水野信元死後の刈谷を与えておいたので、家臣も増えたかと思えばそうではなく、

 それどころか水野の旧臣を追放してしまった。

 それでも跡目を新たに設けるなら前と同じ数の家臣を確保できるはずだが、

 1人も家臣を召し抱えていなかったのなら、

 追放した水野の旧臣の知行を信盛の直轄とし、

 収益を金銀に換えているということである。

 言語道断である。

一、山崎の地を与えたのに、信長が声をかけておいた者をすぐに追放してしまった。

 これも先の刈谷と件と思い合わされる事である。

一、以前からの家臣に知行を加増してやったり、与力を付けたり、新規に家臣を召し抱えたりしていれば、

 これほど落ち度を取ることはなかったであろうに、

 けちくさく溜め込むことばかり考えるから今回、天下の面目を失ってしまったのだ。

 これは唐・高麗・南蛮の国でも有名なことだ。

一、先年、朝倉をうち破ったとき(=刀根坂の戦い)

 戦機の見通しが悪いとしかったところ、

 恐縮もせず、結局自分の正当性を吹聴し、あまつさえ席を蹴って立った

 これによって信長は面目を失った。

 その口程もなく、ここ(天王寺)に在陣し続けて、その卑怯な事は前代未聞である。


・・・・石山本願寺を攻めるのに、攻めることもなく、

ただ、5年も天王寺城に居座っただけで、

最後は、信長が朝廷の威光を頼んで終結したんだ、

佐久間は何もしてないじゃないか、と・・・・


それで、城氏は、続けてこう分析されます・・・


【織田成果主義が崩壊したワケ】

ただ、彼のしがらみの無さは、家中に静かな動揺をもたらした。

そして彼自身、想像もしなかったような形でそれは顕在化してしまう。

そう、本能寺の変だ。

「このままいけば織田家の天下統一は間違いない。

でも、仕事が無くなったら、戦自慢の俺たちはどうなるの?」

という疑問は、光秀でなくとも抱いただろう。

「いやあおまえたち、これまでよく頑張ってくれたね。

長年の年功に応じて所領を分配するから、これからはゆっくり茶でも飲んで暮らしなさい」

なんてことを信長が絶対に言わないであろうことは、

家臣ならみんなよく分かっていたはず。

こうして、中途採用エリートの出世頭である

明智光秀の謀反につながるわけだ。

そして、もう一つ、

彼の成果主義には負の影響があった。

彼の死後、織田家は他に例をみないほどのスピードで崩壊する。

一応、(あまり出来のよろしくない)子供をそれぞれ担いで

派閥争いという形を取ってはいたが、

その後の家臣の争いは完全な覇権争いだ。

事実、その争いを制した羽柴秀吉は、名実ともに天下人としての道を歩むことになり、

かつて担いだ信長の嫡孫は田舎にポイ捨てされてしまった。

織田家は、年功序列という価値観が全否定された稀有な組織だ。

だから信長という最強のストッパーが外れた後、

誰も彼の「年功の残り」を担ぐ人がいなかったのだろう。

そういう意味では、本能寺で信長が死んだ瞬間に、

織田家も滅んだと言えるかもしれない。

人事制度で解く「織田信長の天下布武」


・・・・なるほど、と、思いますが、

・・・・実は、
佐久間信盛がやった本能寺の「包囲戦」というのは、
信長の意向だったそうです・・・・

∑ヾ( ̄0 ̄;ノ エーッ!何ソレ!!!

だって、石山本願寺の強さは並のものではなく、

〉〉〉前任者の「塙直政」は早急に攻め討ち死に
他の部隊も各個激破され信長自身も狙撃されるほどの敗北
その後は「佐久間信盛」が大軍を持って包囲戦
「包囲戦」事態は、「信長」の意向です。
そして「本願寺」との抗争は10年ですが
彼が担当してから「5年」で終結していて、
「秀吉の播州征伐」「勝家の越前攻め」も4~5年かけており、
かの「本願寺」を相手とすると、別に見劣りを感じません。

〉〉〉また終結には「朝廷」の威光を使用しましたが
その「朝廷」との交渉をしたのも「佐久間信盛
戦、外交とがんばっているように見えます。

∑ヾ( ̄0 ̄;ノ エーッ!マッタク悪クナイジャン!

・・・・そうなんです・・・・

なぜ、佐久間信盛は、
責めを負って、首にされなければいけなかったのでしょう、ってことなんですが、

信長が、信盛に提示した二つの道とは、

一、こうなればどこかの敵をたいらげ、会稽の恥をすすいだ上で帰参するか、

 どこかで討死するしかない。

一、親子共々頭をまるめ、高野山にでも隠遁し連々と赦しを乞うのが当然であろう。


 右のように数年の間ひとかどの武勲もなく、未練の子細はこのたびの保田の件で思い当たった。

 そもそも天下を支配している信長に対してたてつく者どもは信盛から始まったのだから、

 その償いに最後の2か条を実行してみせよ。

 承知しなければ二度と天下が許すことはないであろう。


゚゚(´O`)°゚ ウワーン!!厳シイ~

信長は、本音のぽろりと、最後に述べていますね、

「そもそも天下を支配している信長に対して
たてつく者どもは信盛から始まった」って・・・・

それは・・・・

天正元年(1573年)8月の一乗谷城の戦いの直前、
戦場から離脱する朝倉義景軍の追撃を怠った織田家臣団の面々は信長の叱責を受ける。
その際、信盛は涙を流しながら
「さ様に仰せられ候共、我々程の内の者はもたれ間敷」
(そうは言われましても我々のような優秀な家臣団をお持ちにはなれますまい)」と弁明し、
信長の怒りに油を注いだ(『信長公記』)wikipedia

佐久間信盛 たてついた 

・・・・このように、佐久間信盛が信長に反論したのには、

佐久間家は信長に身ひとつで仕え始めた羽柴秀吉、明智光秀、滝川一益らとは違って、
元から尾張に勢力を持つ土豪であり、
独自の判断で守護代の分家にすぎなかった織田信秀につき従ってきた、
いわば盟主と傘下協力者に近い(徳川家と酒井家のような)関係にあった。wikipedia

・・・・信盛は、信長に絶対服従の部下ではなかった、ということを、
信長はこのとき、思い知ったのでしょう。

信長が天下布武を成し遂げる上において、
自分と対等な位置に立とうとするものは、すべて排除するぞ、という
信長の強い思いを示したのが、この19ヶ条の折檻状であり、

佐久間信盛や林通勝らの追放は、
その見せしめであったのではないでしょうか・・・・

佐久間信盛は、
この時期には、すでに、信長に全ての領地を取り上げられており、

また、羽柴、明智のように本拠地としての城や領国を与えられず、
近衛軍団長のような立場であったため、
佐久間には反乱する足場もなかった。(wikipedia)

とのこと・・・・

これを目撃した明智光秀らに、動揺が広がったのは当然のことだったでしょう・・・

いつ何時、自分が意図してやってなくても、
気性の激しい信長の逆鱗に触れたならば、
次は自分の番だ、と、考えないはずはないでしょう・・・・

それゆえ、
やられるのなら、やられる前にやってやろう・・・
そういうチャンスが巡ってきたら、必ず・・・・

それが、明智光秀による本能寺の変だったのかもしれません・・・・

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