日本の神話の『古事記』
それは、単なる神話ではなかった・・・・

天孫降臨 

前回お話した
高須クリニックの高須克弥院長先生は、
戦後生まれなのに、
日教組の左翼思想に全くまみれずに保守でこられたのは、

克弥先生のおじさんやおじいさんたちはみなさん、
日清・日露戦争、そして第二次世界大戦のときの軍医さん、

〉〉〉親戚が集まれば、戦争のときはどうだった、って、いうことが自慢で、
戦争のときに悪いことした、っていうのは、実は違う、っていうの、
伝聞ですけど、本当のこと、知ってるの
前線にいた軍医の話を一番知っているのは、僕ですよ。

だから、筋金入りの保守でおられる克弥先生なんですね!


【日本の病巣を斬る!#18 高須克弥降臨SP】

〉〉〉で、学校に行くと、戦後の日教組の教育をさせられるでしょ、
僕の最初の学校の先生は、
ソビエトに抑留されてて、洗脳されて帰ってきた先生で、
天皇は間違ってるとか、
日本は恥ずかしいからみんなで平和のために謝ろう、とかね、

〉〉〉で、家に帰るとおばあちゃんがね、どんなこと教わってきたの、って聞いたの、
全部まちがってるって、もういっぺん教え直す、って、

〉〉〉右翼の先生を家庭教師に雇ってきて
その先生のほうが立派な先生で、師範学校ちゃんと卒業しているの、
捕虜になった先生は学徒動員で、ちゃんと教育受けてなかった
だから、僕は、戦後のまちがった史観に染まってないの

「ソビエトでの抑留」ですが・・・・

『ロシア国家犯罪を検証せよ
シベリア抑留は70万人、死者10万人だった』

《スターリンの非道》
〉〉〉ソ連軍は終戦直前の昭和20年8月9日午前零時、
日ソ中立条約を破棄して満洲に侵攻した。
北朝鮮にも同日、北部沿岸に爆撃を始めた。
樺太には8月11日から北部国境方面にソ連軍が侵入した。
千島列島への侵攻は遅く、
終戦後の8月18日に占守島(しゆむしゆとう)へソ連軍が上陸し、
日本軍との間で大規模な戦闘となった。

〉〉〉スターリンはすでに
ドイツ人を始め枢軸国側の捕虜を三百万人以上
国内に連行して使役し味をしめていたから、
満洲侵攻後の8月23日、
有名な「秘密指令九八九八号」を出して
50万人の日本人をシベリアへ連行するよう命じた
同時に満洲、北朝鮮の施設と物資を
「戦利品」として大量に掠奪し国内へ移送した。

〉〉〉8月末から翌春にかけて60万人以上の日本の軍民が
ソ連とモンゴルに移送され長期間抑留された。
いわゆる「シベリア抑留」である。
連行先は、北は極北のノリリスクから南はトルクメニスタンまで、
東はカムチャツカから西はウクライナまでほぼソ連の全土に及び、
一部はモンゴルにも移送されたから地域的には「ソ連モンゴル抑留」がふさわしい。

〉〉〉ソ連占領地では
ソ連軍による居留民に対する残虐行為が多発した。
掠奪、暴行、強姦により居留民は塗炭の苦しみを味わった。
とりわけ悲惨だったのは開拓民で、
根こそぎ動員で男手のない老人と婦女子の集団が
ソ連軍や現地民に襲われ、
陰惨極まりない逃避行を余儀なくされたのだ。

長崎に原爆が落とされたのが、昭和20年8月9日午前11時・・・・

連合国アメリカからの情報で、原爆が落とされ、
日本が瀕死の状態になることを知って、
日本に侵攻してきたロシア・・・・

この年の2月に行われたヤルタ会談では、
ソ連の対日宣戦が、秘密裏に約束されていましたし・・・・

ヤルタ会談 
左からイギリス・チャーチル、
アメリカ・トルーマン、ソ連・スターリン

〉〉〉スターリンはルーズベルト、チャーチルとのヤルタ会談で、
ドイツ降伏後、二、三カ月で対日戦に参戦し、
見返りに樺太、千島列島、東清鉄道、大連、旅順を貢ぐよう約束させた。

(゚Д゚;)怖イ~~

アメリカ、イギリス、ロシアなどヨーロッパ各国は、
1899年に、ハーグ陸戦条約を結び、
その禁止項目には、
敵の国民(非戦闘員)を殺傷してはならない、としているけれど、

アメリカは空襲・爆撃という行為で、
非戦闘員である日本国民を徹底的に無差別殺戮をしましたし、

また、捕虜に関する項目には、
敵の捕虜は人道をもって取り扱うこと、と規定されているけれど、

ソ連軍に連行され、収容所で日本人を待ち受けていたのが、
「シベリア三重苦」と言われる飢餓、重労働、酷寒で、
「人道的」になんてどこ吹く風・・・・

西洋では、支配者と被支配者という考え方なので、
強い国が現れれば、その国が自分たちを支配するだろう、
自分たちがやられる前に、潰してしまえ!

強い自分たちは、支配者だから、
被支配者である弱いものたちをどう扱っても構わない、

だから、どんなに酷いことでもできてしまう、とか?・・・・

<(゚ロ゚;)>ノォオオオオオ!!


この西洋人の考え方は、
一神教であるキリスト教にその根っこがあるというのは、

『余命三年時事日記』に投稿された「あまむし」さんの御説ですが、

〉〉〉『古事記』「神が人間を生んだ」
(生まれた人間も結局は〝神〟)(神=人間)
「同じもの」「一体」という思想に対して、

古事記 

〉〉〉『旧約聖書』では、
「神が人間を土の塵で造った」という
「神は創造主で、人間は被造物」
(神は支配者で、人間は被支配者)という
「二元論思想」
対立思想(支配・被支配の思想)
唯物思想という、
本質的相違を見出す事が出来るのである。
《余命三年時事日記》 2546 投稿記事・あまむし

旧約聖書 


日本では、日本人全部が「神」、

お互いが神聖なる「神」であるから、お互いを尊重しあうし、
お互いが兄弟であり、一体であるから、
聖徳太子十七条の憲法の、
「和をもって貴しとなし、さかふること無きを宗とせよ」
とあるように、
みんなで仲良くして、喧嘩しないでおきましょう、
共存共栄しましょう」という考え方になる。

だから、殺戮しあったりはしないし、
たとえ、敵同士で戦っても、
戦いが終われば、それ以上の無意味な殺戮はしないのですが、

『旧約聖書』=ユダヤ思想から派生した、
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教を信奉する国々の人たちの
西洋文明は「侵略と戦争と奴隷」の文明でした。

「神が土の塵で作った人間」だという考え方は、
その神に人間は服従する(契約の思想)という
支配者と被支配者の二元論の考え方になり、

この世は、支配者と被支配者の二つだけ。

被支配者は奴隷ですから、
支配者になるためには、戦いに勝つことだけ。

勝つためには、先に侵略するほうが有利だし、
征服されたものは、奴隷になるしかなく・・・・

(≡д≡)ガーン!

そっか・・・・

もともと人間は、「土の塵で作られた」だから、
人間自体に尊厳がないし、神聖さもない・・・・

だから、塵くずのように扱っても、扱われても、
それがおかしいことだとは思わない・・・・

ΣΣ( ̄◇ ̄;)!ハウッ!

それに、
西洋社会における「労働」とは、
「原罪」に基づく「罰則」から来る概念であるが故に、

日本民族の様に
「労働」を神聖視することは出来ないとのことです。

たしかに、
労働が「罰」なら、働きたくないよね・・・・

だから、奴隷に働かせる、のか・・・・

そうすると、奴隷になる人間が必要で・・・・

奴隷を確保するために、侵略する・・・・

他民族を侵略して殺せば、その後には、相手民族からの報復があり・・・・

これって、永遠に戦争ですね!

ш(´[]`)шオーマイガッ!

それに対して、
『古事記』を日本人のアイデンティティにして
共存共栄してきた日本て、
本当にすばらしい国なんですね!

( Д ) ⊙ ⊙ !! 目カラ鱗

私、大学院で日本の古典を勉強しましたが、
『古事記』も読みましたが・・・・
でもよくわかりませんでした・・・・
この神話が何を意味するのかが・・・・

『古事記』って、単なる神話ではなく、
こういう意味があったのですね・・・・

日本には奴隷がいない理由もよくわかりますね。

「あまむし」さんがおっしゃるように、
『旧約聖書』と『古事記』の本質的相違を考えると、
西洋人が戦争・殺戮を繰り返して、
そして、
世界中を武力で植民地にしてきたこと、

「遺跡」という名前の侵略跡の廃墟を世界中に作ってきた、

この野蛮な行為のおおもとは、

『旧約聖書』にあったのですね。

創造主の神と、土の塵から作られた物である人間という唯物思想が
その行為を可能にさせた、

なるほどな、と、思います。

『古事記』にある「天孫降臨」は、
神が人間としてこの地に降りられたという意味ですね。

「神」から最後にお生まれになったのが、
「神倭伊波礼毘古命」(かむやまといわれびこのみこと)で、
初代神武天皇さま・・・
私たち日本人の祖先の天皇さまですね。

私たち日本人は、天皇の赤子ですから、
私たちも、神の子=神ということになります。

あなたも、私も、同じ「神」ですから、
「神」を敬うように、お互いの存在を敬いましょう、と!

相手を敬えば、殺し合いはしません。
仲良くするしかありません。
嫌なことがあっても、お互いさま、我慢しましょう!

この精神がずっと培われてきた日本では、
天皇家が2600年続き、平和に暮らして来られたのですね。

でもね、

実は、イエス・キリストも、同じことを言っていたのだ、と、
あまむしさんは、おっしゃいます。

イエス・キリストが弟子達に与えた祈祷文である
『新約聖書』の「主の祈り」で、
天にまします我らが父」と言っているそうですね。

これは、「神は人類の父である」ということであり、
人間は神の子である」とキリスト自身は説かれた、のだ、と。

つまり、
キリストも、「人間は神の子である」と!
それは、『古事記』の考え方と一緒ですね。

ところが、
キリストは、ユダの裏切りによって、磔の刑に処せられます。

なぜ、磔の刑に?

キリストが言うように、人間が神の子であるとしたら、
『旧約聖書』に言う
人間は土の塵で作られた被造物である」という
唯物思想」に反してしまうのですね・・・・

「唯物」=「唯だの物だ」です。
人間が「土の塵」でできているものなら、殺してもいいし、
奴隷にして支配してもいいし、何をしてもいい・・・

そして、
「神は創造主」で「人間は被創造物」は、
支配者と被支配者の「二元論思想」「対立思想」を生み出し、
人間は作られた「物」という「唯物思想」を生み出した。

人間は「物」だったのに、人間が「神の子」になったら?

「神」を殺すわけにもいかないし、
「神」を奴隷としてこき使うわけにもいかなくなります・・・・

〉〉〉キリストは救世主として、
当時のユダヤの間違った「唯物思想」
(人間は土の塵で作られた被造物であるという思想)を、
諭す為に出現したのであろう。

〉〉〉しかし、当時のユダヤ人達の多くが、
その事を理解できずに、(又、何かの不都合を隠すために)
キリストを磔にして殺した。

〉〉〉後のキリスト教会が、
「人間は罪の子」(『旧約聖書』の思想)
「キリストだけが神の子」だと教えて、
本来のキリストの精神を歪めたのである。
キリストが間違っていたのではない
ほんとうに、
日本人として、
この日本に生まれてよかった、って、心より思いますね。

だって、日本人であれば、
理由も無く殺されないし、奴隷にもされないし、
身分も、ささやかながらの財産も保証してくれます。

これほどの幸せがあるでしょうか・・・・

 (*´∀`*)シアワセ♡デス!!!

前回に引き続き、高須克弥先生の話をしたかったのですが、
シベリア抑留から
まったく違う方向に今日は来てしまいました・・・・

克弥先生、そして、恋人の西原理恵子さんのことは、
また、書きたいなあ、って、思っています。
では、また・・・・


織田信長といえば、本能寺の変ですが、

明智光秀がなぜ謀反を起こしたのか、その理由を、

信長の人事のやり方がまずかったのでは、と、いうのがありまして、


《人事制度で解く織田信長の天下布武》

2012/10/2 城繁幸


人事コンサルタントをやっている城氏からみると、

 

明智光秀が信長をやるしかない、と、思った理由は、

佐久間信盛、林通勝らの古くからの重臣を

本能寺の変の2年前の1580年に追放したことがきっかけではないか、というものなのです。


御説を見ていきましょう・・・・


《実は叩き上げだった信長》

〉〉〉戦国大名と言っても、実はいくつかのタイプに分類できる。

1.室町幕府の守護大名

足利将軍家に任じられた正統な大名家

武田、今川、朝倉、九州の島津といった大名家がこれにあたる。

特徴として、他の大名家をバカにして、家柄を誇る傾向がある。

そして当然ながら、自らの権威の源泉である将軍家への忠誠もあつい。


2.守護代が成りあがった大名

守護大名は偉いので、日常業務は部下に丸投げする人が多かった。

最初の内はそれでもよかったが、

権威の源泉である室町幕府がヨロヨロになってくるにつれ、

部下も「なんでこんな毎日食っちゃ寝ばかりしている人に仕えなきゃならんのだ」と思うようになるのは当然で、

やがて日本中で部下達が領地を乗っ取って独立するようになる。

三好、長宗我部、長尾(後の上杉氏)、そして織田などが代表。


3.よくわからない人が国を取ってしまった大名

室町も末期になるとなんでもありの時代になり、

守護代ですらより下の人達に乗っ取られるようになった。

守護代の側近くらいならまだマシで、

中には出自が良く分からない大名も多い。

小田原の北条早雲と美濃の斎藤道三が有名だが、

実は徳川家もここに該当する。


戦国大名にも保守的な人から革新的なタイプまでいろいろあるが、

だいたい上記の分類で上に行くほど保守的で年功序列を重んじ、

下に行くほど革新的で形式にこだわらないタイプが多い。

当然と言えば当然で、

己の実力で勝ち上がった人ほど、他人の権威はあてにしていないということだろう。


ところで、

上で織田家は守護代出身の2番目グループと書いたが、

信長についてはここにあてはまるかは微妙なところ。

実は織田家といっても色々あって、

信長はその中の清州織田家という家の、さらに家老の家柄にすぎないのだ。

要するに守護の部下の部下の部下くらいの家柄にあたる。

しかもそんな小さい家ですらすんなり世襲できず、

兄弟と血みどろの争いを経た上でようやく当主に就いている

(最終的には弟を殺害)。

要するに、

信長という人は世襲というよりほとんどゼロから実力で叩き上げた人で、

タイプとしては限りなく3番に近いということだ。


ところで、

信長の外交関係をみると、面白い事実が見えてくる。

義父である斎藤道三、

唯一の盟友である徳川家康、

初期の同盟者であり妹の嫁ぎ先である浅井長政等、

仲の良い大名はみんな3番グループに属する

一方、武田、今川、朝倉といった守護大名とは

のきなみ敵対関係にある。

恐らくは同じように実力で這いあがってきた人には親近感を抱く半面、

権威を世襲しているような人には

一種のコンプレックスを抱いていたのではないか。


【中途採用エリートの楽園】

〉〉〉さて、そんな弱小織田家だが、

信長の出現で一気に勢力を拡大していくことになる。

ここで一つの問題が発生する。

深刻な人材難だ。

もともと中小企業で細々とやっていたのが、

突然上場して従業員数が十倍になったようなものだから、

家中に人材なんているわけがない。

また、織田家は信長以外ロクな人材がいないことでも有名で、

一族もまったくあてにはならない。


というわけで、

信長は積極的に中途採用をすすめることになる。

そして明智光秀滝川一益荒木村重といった中途採用者を、

代々の家臣以上に重用していく。

また、羽柴秀吉のような身分の低い人間であっても、

優秀であればどんどん抜擢もする。

こんなところにも、

彼の型にはまらない価値観がよくあらわれていると言える。

以前も述べたように、織田家というのは

スキルを武器に大名家を渡り歩く中途採用者にとってはパラダイスだったはずだ。


【職務給型組織への大転換!】

ところで、中途採用者にとって天国ということは、

裏を返せば年功色が薄いということでもある。

近畿を制圧し、安土城を作った後になって、

信長は林通勝、佐久間信盛の二名の重臣を突然追放している。

いずれも父の代から仕えた老臣で、家中の重鎮的存在だった。

理由は、佐久間に出した書状にはっきりと述べられている。

「おまえはこれだけの地位にありながら、ほとんど働いていない。

光秀や秀吉を見習ったらどうだ」

ちなみに、

佐久間信盛は近畿地方の軍団長的存在だったが、

彼の追放後にそのポストについたのは、他でもない明智光秀だ。

本能寺の変の2年前のこと。

組織の新陳代謝のためには、

古い部分を切り捨てなければならないということだろう。

考えてみれば、これは現在の日本企業が直面する課題と同じだ。

どの経営者も腹の中では

「もう年功序列じゃいかん、年功によらず抜擢しないと組織は生き残れない」

なんてことは痛いほどわかっているが、

思い切った人事制度改革には踏み込めていない。

理由ははっきりしている。

年功によって最大の恩恵を受けているのが自身であるとよく分かっているからだ。

抜本的改革は、自らの権威をも否定することでもあるのだ。

日産ルノーのゴーン氏しかり、

(企業再建のプロと言われる)日本電産の永守氏しかり、

「外からやってきた人にしか日本企業の改革はできない」と言われる理由はこれである。

逆に言えば、

弟を殺して当主に就き、そこから叩き上げて天下統一までこぎつけた信長からすれば、

心おきなく「いらない奴」をクビにできたわけだ。


佐久間信盛 

佐久間信盛『長篠合戦図屏風』(成瀬家本)より


・・・・ここで、佐久間信盛が首になった理由が書いてある、

信長が出した19ヶ条の折檻状を見てみましょう。


一、佐久間信盛・信栄親子は

 天王寺城に五年間在城しながら何の功績もあげていない。

 世間では不審に思っており、

 自分にも思い当たることがあり、口惜しい思いをしている。

一、信盛らの気持ちを推し量るに、

 石山本願寺を大敵と考え、戦もせず調略もせず、ただ城の守りを堅めておれば、

 相手は坊主であることだし、

 何年かすればゆくゆくは信長の威光によって出ていくであろうと考えていたと。

 さて言わせてもらおうか。

 武者の道というものはそういうものではない。

 勝敗の機を見極め一戦を遂げれば、

 信長にとっても佐久間親子にとっても兵卒の在陣の労苦も解かれてまことに本意なことであったのに、

 一方的な思慮で持久戦に固執し続けたことは分別もなく浅はかなことである。

一、戦いで期待通りの働きができないなら、

 人を使って謀略などをこらし、

 足りない所を信長に報告し意見を聞きに来るべきなのに、

 五年間それすらないのは怠慢で、けしからぬことである。

一、信盛の与力・保田知宗の書状には

 「本願寺に籠もる一揆衆を倒せば他の小城の一揆衆もおおかた退散するであろう」とあり、

 信盛親子も連判している。

 今まで一度もそうした報告もないのにこうした書状を送ってくるというのは、

 自分のくるしい立場をかわすため、あれこれ言い訳をしているのではないか。

一、信盛は家中に於いては特別な待遇を受けている。

 三河・尾張・近江・大和・河内・和泉に、

 根来衆を加えれば紀伊にもと七ヶ国から与力をあたえられている。 

 これに自身の配下を加えれば、どう戦おうともこれほど落ち度を取ることはなかっただろう。

一、水野信元死後の刈谷を与えておいたので、家臣も増えたかと思えばそうではなく、

 それどころか水野の旧臣を追放してしまった。

 それでも跡目を新たに設けるなら前と同じ数の家臣を確保できるはずだが、

 1人も家臣を召し抱えていなかったのなら、

 追放した水野の旧臣の知行を信盛の直轄とし、

 収益を金銀に換えているということである。

 言語道断である。

一、山崎の地を与えたのに、信長が声をかけておいた者をすぐに追放してしまった。

 これも先の刈谷と件と思い合わされる事である。

一、以前からの家臣に知行を加増してやったり、与力を付けたり、新規に家臣を召し抱えたりしていれば、

 これほど落ち度を取ることはなかったであろうに、

 けちくさく溜め込むことばかり考えるから今回、天下の面目を失ってしまったのだ。

 これは唐・高麗・南蛮の国でも有名なことだ。

一、先年、朝倉をうち破ったとき(=刀根坂の戦い)

 戦機の見通しが悪いとしかったところ、

 恐縮もせず、結局自分の正当性を吹聴し、あまつさえ席を蹴って立った

 これによって信長は面目を失った。

 その口程もなく、ここ(天王寺)に在陣し続けて、その卑怯な事は前代未聞である。


・・・・石山本願寺を攻めるのに、攻めることもなく、

ただ、5年も天王寺城に居座っただけで、

最後は、信長が朝廷の威光を頼んで終結したんだ、

佐久間は何もしてないじゃないか、と・・・・


それで、城氏は、続けてこう分析されます・・・


【織田成果主義が崩壊したワケ】

ただ、彼のしがらみの無さは、家中に静かな動揺をもたらした。

そして彼自身、想像もしなかったような形でそれは顕在化してしまう。

そう、本能寺の変だ。

「このままいけば織田家の天下統一は間違いない。

でも、仕事が無くなったら、戦自慢の俺たちはどうなるの?」

という疑問は、光秀でなくとも抱いただろう。

「いやあおまえたち、これまでよく頑張ってくれたね。

長年の年功に応じて所領を分配するから、これからはゆっくり茶でも飲んで暮らしなさい」

なんてことを信長が絶対に言わないであろうことは、

家臣ならみんなよく分かっていたはず。

こうして、中途採用エリートの出世頭である

明智光秀の謀反につながるわけだ。

そして、もう一つ、

彼の成果主義には負の影響があった。

彼の死後、織田家は他に例をみないほどのスピードで崩壊する。

一応、(あまり出来のよろしくない)子供をそれぞれ担いで

派閥争いという形を取ってはいたが、

その後の家臣の争いは完全な覇権争いだ。

事実、その争いを制した羽柴秀吉は、名実ともに天下人としての道を歩むことになり、

かつて担いだ信長の嫡孫は田舎にポイ捨てされてしまった。

織田家は、年功序列という価値観が全否定された稀有な組織だ。

だから信長という最強のストッパーが外れた後、

誰も彼の「年功の残り」を担ぐ人がいなかったのだろう。

そういう意味では、本能寺で信長が死んだ瞬間に、

織田家も滅んだと言えるかもしれない。

人事制度で解く「織田信長の天下布武」


・・・・なるほど、と、思いますが、

・・・・実は、
佐久間信盛がやった本能寺の「包囲戦」というのは、
信長の意向だったそうです・・・・

∑ヾ( ̄0 ̄;ノ エーッ!何ソレ!!!

だって、石山本願寺の強さは並のものではなく、

〉〉〉前任者の「塙直政」は早急に攻め討ち死に
他の部隊も各個激破され信長自身も狙撃されるほどの敗北
その後は「佐久間信盛」が大軍を持って包囲戦
「包囲戦」事態は、「信長」の意向です。
そして「本願寺」との抗争は10年ですが
彼が担当してから「5年」で終結していて、
「秀吉の播州征伐」「勝家の越前攻め」も4~5年かけており、
かの「本願寺」を相手とすると、別に見劣りを感じません。

〉〉〉また終結には「朝廷」の威光を使用しましたが
その「朝廷」との交渉をしたのも「佐久間信盛
戦、外交とがんばっているように見えます。

∑ヾ( ̄0 ̄;ノ エーッ!マッタク悪クナイジャン!

・・・・そうなんです・・・・

なぜ、佐久間信盛は、
責めを負って、首にされなければいけなかったのでしょう、ってことなんですが、

信長が、信盛に提示した二つの道とは、

一、こうなればどこかの敵をたいらげ、会稽の恥をすすいだ上で帰参するか、

 どこかで討死するしかない。

一、親子共々頭をまるめ、高野山にでも隠遁し連々と赦しを乞うのが当然であろう。


 右のように数年の間ひとかどの武勲もなく、未練の子細はこのたびの保田の件で思い当たった。

 そもそも天下を支配している信長に対してたてつく者どもは信盛から始まったのだから、

 その償いに最後の2か条を実行してみせよ。

 承知しなければ二度と天下が許すことはないであろう。


゚゚(´O`)°゚ ウワーン!!厳シイ~

信長は、本音のぽろりと、最後に述べていますね、

「そもそも天下を支配している信長に対して
たてつく者どもは信盛から始まった」って・・・・

それは・・・・

天正元年(1573年)8月の一乗谷城の戦いの直前、
戦場から離脱する朝倉義景軍の追撃を怠った織田家臣団の面々は信長の叱責を受ける。
その際、信盛は涙を流しながら
「さ様に仰せられ候共、我々程の内の者はもたれ間敷」
(そうは言われましても我々のような優秀な家臣団をお持ちにはなれますまい)」と弁明し、
信長の怒りに油を注いだ(『信長公記』)wikipedia

佐久間信盛 たてついた 

・・・・このように、佐久間信盛が信長に反論したのには、

佐久間家は信長に身ひとつで仕え始めた羽柴秀吉、明智光秀、滝川一益らとは違って、
元から尾張に勢力を持つ土豪であり、
独自の判断で守護代の分家にすぎなかった織田信秀につき従ってきた、
いわば盟主と傘下協力者に近い(徳川家と酒井家のような)関係にあった。wikipedia

・・・・信盛は、信長に絶対服従の部下ではなかった、ということを、
信長はこのとき、思い知ったのでしょう。

信長が天下布武を成し遂げる上において、
自分と対等な位置に立とうとするものは、すべて排除するぞ、という
信長の強い思いを示したのが、この19ヶ条の折檻状であり、

佐久間信盛や林通勝らの追放は、
その見せしめであったのではないでしょうか・・・・

佐久間信盛は、
この時期には、すでに、信長に全ての領地を取り上げられており、

また、羽柴、明智のように本拠地としての城や領国を与えられず、
近衛軍団長のような立場であったため、
佐久間には反乱する足場もなかった。(wikipedia)

とのこと・・・・

これを目撃した明智光秀らに、動揺が広がったのは当然のことだったでしょう・・・

いつ何時、自分が意図してやってなくても、
気性の激しい信長の逆鱗に触れたならば、
次は自分の番だ、と、考えないはずはないでしょう・・・・

それゆえ、
やられるのなら、やられる前にやってやろう・・・
そういうチャンスが巡ってきたら、必ず・・・・

それが、明智光秀による本能寺の変だったのかもしれません・・・・

WHAT'S NEW?