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日中戦争(支那事変)の勃発と言われている
1937年の「盧溝橋事件」の前年の西安事件

それは、
蒋介石の国民党軍に追い詰められて
瀕死の毛沢東に降って湧いてきた
天からのお恵みの天佑

毛沢東はそのときソ連国境の延安にいたのに、
300キロ離れた西安にいる張学良
どうやって連絡を取って味方につけることができたのか?

当然、間をとりもつ誰かがおりまして・・・・

毛沢東とスターリン 

毛沢東 西安 

【西安事件の謎を解く】

まずは、この時の状況ですが・・・・

〉〉〉国民党指導者の蒋介石国交内戦9年
ついに毛沢東を僻地延安に追い詰め、
支那統一五分前という絶好の位置につけていた。

〉〉〉彼の戦略は、安内攘外といって、
国内を統一してから、
支那を植民地にしている英国などと交渉して
独立国として権利を取り戻そうというものであり合理的であった。

毛沢東 蒋介石 

〉〉〉日本は1932年に満洲国を作ったが、
蒋介石日本タンクー協定を結んで、
満洲との鉄道、通信を正常化し、
日本とは良好な関係を維持していた。

〉〉〉蒋介石が一番警戒していたのが共産党であり、
日本は皮膚病だが、
中国共産党は(生命取りの」心臓病である」と述べたのはよく知られている。

〉〉〉日本は蒋介石と反ソ反共で一致していたので、
軍事顧問を送るなど協力していた。
ソ連警戒中
大陸の戦争に利益なし!

・・・そうですよ、
戦争になったら、
平和に日々を過ごしている満州国や中国にいる日本人を、
戦乱の中におくことになりますから、
戦争なんてしたくない!

当然ですね!∠(・_・)ラジャ!

ところが、ここに、
日本と蒋介石を戦争させたい輩がひとりおりまして・・・・

それが、ソ連ヨシフ・スターリンでした

スターリン 

〉〉〉欧州ではヒトラーが台頭し、軍事力を強化していた。
これを見たスターリンは、東西挟撃を恐れて、
東部国境の反共勢力である日本と蒋介石無力化することを考えた
それは両者の戦争であった。

・・・蒋介石も日本も、反共産主義です。
共産主義に反対するこの二者がやりあってくれたら、
共産党のスターリンのソ連と毛沢東は漁夫の利を得られます。

|* ̄∇ ̄|ヘヘッ オイシイネ

〉〉〉スターリン
反共の蒋介石対日戦争に利用することを考えた。

〉〉〉それは毛沢東は蒋介石と比べると田舎者であり、
欧米の支援を取り付けるのは難しく、
蒋介石なら、それが可能だ、と見たからである。

〉〉〉また、スターリンは1926年蒋介石
軍艦「中山」号で誘拐しようとして失敗している。

・・・蒋介石を自分の手駒にしようとしていた、ってことかな?

 (* ̄ρ ̄)”ヘー…

〉〉〉1935年、ソ連のコミンテルン第七回大会では
主敵をナチスドイツ、ポーランド、日本としている。
中共を滅ぼそうとしている蒋介石は入れていない。
ということはスターリンはこの時すでに蒋介石を利用して
日本攻撃を行わせる戦略を持っていたということになる。

〉〉〉コミンテルンは「スターリンの手袋」と言われ、
KGBが金も人も支配するソ連海外謀略工作の偽装組織であった。

・・・そして
蒋介石を騙して監禁した張学良という輩・・・

毛沢東 張学良 

〉〉〉張学良満洲の軍閥張作霖の継承者である。
満洲で日本人を迫害し、
協定侵犯を300件以上起こしたので
少数の日本軍に反撃されて(満洲事変
満州から中国本土に追い出され
部下を連れて当時国民党蒋介石軍の配下になっていた。

∑('□'*('□'*)エッ?

・・・てことは?
満州事変でも、悪いのは張学良であって、
日本は、何も悪くなかった!

・・・張学良が満州を治めていたといっても、
ごろつきの親分と同じで、
満州の人民は、奴隷状態で、搾取されていました。
張作霖も張学良も、満州の予算の85%が軍事費、
そのうえ、数年先分までの税金の前払いを強制していたのですから、
仁義があるやくざのほうが、まだましで、
単なる泥棒集団と変わらなかった・・・・

|;-_-|=3ハァ、酷イモンダ

・・・満州事変、柳条湖事件については、またにしますが・・・

それで、
〉〉〉蒋介石張学良に
共産軍本拠地の総攻撃を命じていた


そして、
〉〉〉延安に追い詰められた中共軍の毛沢東は、
彼はソ連の顧問団とともに
飛行機でソ連に逃亡する準備を終えていたという。

( ̄- ̄)フーン
さすが、抜け目ないね・・・

〉〉〉この毛沢東の中共を管理していたのがソ連である。
ソ連は1921年に中共を設立し、顧問団、金、武器を毛沢東に与えて、
ソ連の極東政策に利用していた。

〉〉〉当時の毛沢東田舎のゲリラの隊長にすぎず、
世界の左翼から神と畏怖されていたスターリンとは月とスッポンであった。

・・・毛沢東の「長征」とは後から作られた創作で、
現実は、洞窟に隠れ住み、
行く先々で、村を襲って、強奪・陵辱・殺人を繰り返し、
蒋介石からは、「洞窟のゲリラども」と呼ばれていたそうです・・・

その蛮行を覆い隠すために名付けたのが、「長征」

・・・上記の地図で、
「毛児蓋」とある地域はチベットです。
チベットはこのときから、中共軍の餌食になっていました・・・

さて、
1936年12月12日西安事件に至る経過を見て生きましょう。

1936年6月
〉〉〉エドガースノー延安を訪問し周恩来と面談した。

・・・エドガースノーはアメリカのジャーナリストで、
中国共産党と親しかった・・・・

〉〉〉この時のことを、スノーは、戦後1957年になって初めて
「中共雑記」の中で紹介している。
〉〉〉このとき周恩来はスノーに、
蒋介石を利用して対日戦争を行わせる戦略を語った。
これはソ連が第七回コミンテルン大会で示唆したものである。
そして周は「蒋介石が対日攻撃をする時が、
蒋介石の没落の始まりになるだろう」と述べる。
この戦略は、勿論周恩来ひとりの案ではなく、
毛沢東そして黒幕スターリンの戦略である。

〉〉〉これは毛沢東が蒋介石を殺すつもりなど
はじめからなかったことを示しており、
西安事件の基本構想が
中共幹部の間で共有されていたことを意味する。

1936年11月
〉〉〉蒋介石は9年がかりの国共内戦に勝利し、
支那統一の五分前の絶好の位置につけていた。
〉〉〉そこで延安総攻撃準備を
部下の張学良将軍に命令
〉〉〉ソ連顧問団と毛沢東は脱出の準備。

1936年12月12日
〉〉〉蒋介石は、部下の張学良の要請で
延安総攻撃の打ち合わせのため西安に赴く
これがワナだった。
危険を知らせる警報もあったという。
完全勝利目前の油断であった。

1936年12月13日
〉〉〉早朝、張学良、楊虎城の数千の反乱軍が宿舎を包囲。
護衛部隊は射殺された。
蒋介石は寝間着姿で裏山に逃げ込んだが逮捕された。

〉〉〉事件直後の朝日新聞はソ連の謀略工作であると報道している。
一方ソ連のタス通信日本の謀略であると報道した。
出鱈目情報で世界を混乱させたのである。

〉〉〉張学良が国共内戦の停止と対日戦争を要求した。
しかし、蒋介石は長年の支那統一戦略をやめることになるので、
当然ウンといわない。

〉〉〉周恩来が来て蒋介石と会談。
1924年の国共協力当時
蒋介石は士官学校の校長、周は政治主任であったので面識はあった。
周が「校長、お久しぶりです」と声をかけると蒋介石はびっくりしたという。

〉〉〉そして周恩来は、ソ連顧問団(=スターリンの指示により、
蒋介石の生命と、
スターリンに12年間人質にされている長男蒋経国の命との引き替えに、
蒋介石に降伏を要求したと考えられる。
米国の専門家は蒋介石は頭にピストルを突き付けられたのだろうと述べている。

1936年12月
〉〉〉南京の国民党は指導者蒋介石を取り戻すために
大部隊を西安に向かわせる動きを始めた。
これをみてソ連、中共、張学良らはあわてた
蒋介石が死んでは筋書きが狂ってしまい困るからである。
 
〉〉〉そこに蒋介石の夫人宋美齢が空路、西安に到着した。
おそらく姉の共産主義者の宋慶齢から
スターリンの蒋介石釈放条件を知らされたのであろう。
そこで蒋介石はこの条件を呑んで降伏した。
文書はないというが何があったかはわからない。
土下座した写真を撮られたかもしれない。
共産党は抜け目がないからだ。
この間二週間かかった。

1936年12月24日
〉〉〉蒋介石、釈放。夫妻は空路南京へ帰還した。
この時見送りにきた張学良は、突然飛行機に乗り込み無理やり随行した。
蒋介石は驚いたが、
これはソ連と共産党から用済みで殺されることを恐れたためといわれている。

〉〉〉南京に戻ると蒋介石は従来の国民党の基本方針を一変した。
イ、支那統一放棄
ロ、国共内戦停止
ハ、親日派幹部更迭
ニ、対日戦争準備

〉〉〉対日攻撃の準備:
イ、武器、弾薬、食料の備蓄。兵員百万人の6か月分。馬10万頭6か月分など。
ロ、上海郊外に七万のトーチカ陣地と重機関銃装備など。
ハ、ソ連が三億ドルの軍事援助
  総計、戦闘機・爆撃機一千機。兵員4千名。秘密裏に到着。

〉〉〉1924年以来12年間もスターリンの人質になっていた蒋介石長男、
蒋経国が許され、ソ連人妻を帯同して帰国。
(西安事件の取り引きの結果とみられている)

1937年7月8日
〉〉〉北京近郊で盧溝橋事件ほか対日攻撃事件が発生。
陽動作戦
関心を主戦場の上海から北にそらす。

1937年7月29日
〉〉〉北京近郊通州日本人200名以上の大虐殺発生
日本人を怒らせ大陸の戦争に引きずり込むねらい。

1937年7月31日
〉〉〉米軍顧問シェンノート
蒋介石から対日攻撃の命令受領

1937年8月12日
〉〉〉米軍顧問シェンノート、蒋介石夫人宋美齢から
上海の欧米人に戦争の警報を伝えるように指示された。

1937年8月13日
〉〉〉蒋介石軍五万
協定を破って、上海の日本人居留区を攻撃
日本側水兵四千名と居留民が必死の防衛。
これが支那事変の始まりであった。

〉〉〉蒋介石は最初排日としていたが、KGBの指導で抗日とした。
英語だと抵抗する側が弱く、
正義があるように感じさせる宣伝効果があるからである。
〉〉〉被害者偽装である。
〉〉〉実際は攻日(日本を攻撃)であった。

〉〉〉このあと日本の反撃。
上陸軍の大被害、杭州湾逆上陸。
日本、南京占領
日本講和提案蒋介石の拒否
国民党親日政権樹立

・・・日本は、日本による政権を樹立していないのです。
親日中国人による政権を樹立させています。
なのに、なぜ、侵略した、と言われるのでしょうね・・・

〉〉〉日本の内陸進攻、 
蒋介石の重慶逃亡、勢力圏膠着7年となる。

〉〉〉蒋介石は主人のソ連の軍事支援
のち米国の軍事援助がなければ
一日も日本と戦うことはできなかった。

1945年3月
〉〉〉蒋介石が密使繆斌(ミョウヒン)を日本に派遣。
講和と日本軍10万の貸与を要請。不成立。

・・・「日本軍10万の貸与」!?
( ゚д゚)ハァ?何ソレ?

さんざん、日本を中国での戦いに引き込んでおいて、
今度は助けてほしいから、日本軍を貸して・・・・

(゚∀゚)ウワ!(゚⊿゚)アキレタ!

〉〉〉戦後、繆斌は口封じのため蒋介石が処刑

エッ? (;゚⊿゚)ノ
・・・中国人も、たいへんだねえ・・・・

1945年8月15日
〉〉〉日本降伏。
蒋介石軍の被害150万。日本の被害50万人。
実にもったいないことであった。

〉〉〉蒋介石は、中共に敗退し1949年に台湾に逃亡した。
この時、蒋介石を西安で包囲した楊虎城は家族もろとも処刑された。
張学良蒋介石に随行して台湾に移住した。
この裏では満洲で住民から絞り取った5億ドル
といわれる金を代償に助命されたという。

張学良 豪邸 
満州の張学良の豪邸

〉〉〉しかし張学良によると
蒋介石は、「お前のために支那を失った」と終世許すことはなかったという。
〉〉〉張学良は宋美齢の庇護を受け、百歳まで長生し、ハワイで死亡した。


【まとめ】
〉〉〉支那事変日中戦争)は
蒋介石スターリン傀儡として
日本に代理戦争をしかけたのである。
〉〉〉このため反日主義者は西安事件をなるべく隠ぺいし、
研究を妨害する傾向がある。

〉〉〉支那事変が、
スターリンの対独戦に備えた東部国境工作となると、
日本は傀儡・蒋介石の代理戦争の犠牲者となり、
侵略者ではなくなる

〉〉〉事実、日本が何度講和を提案しても、
蒋介石は受けなかった
日本と蒋介石が講和されては、ソ連が困るからである。

そして、日本は・・・・

〉〉〉蒋介石の対日攻撃を読めなかった
このため支那事変に引きずり込まれた。

この裏では1933年からゾルゲが侵入し、
近衛政府中枢の情報をスターリンに送っていた。
尾崎秀美らはスターリンの指令に従い、日本の支那介入を進めていた。

憎きスターリン!憎き毛沢東!
ヾ(。`Д´。)ノ彡

悔しいです・・・
(。´Д⊂) ウワァァァン!

もし、蒋介石が張学良の罠にひっかからず、
西安事件が起きなければ・・・・
考えても詮無いことですが、

まさに邪悪な世界です。
裏切るのが普通の世界なのです。
それでも、日本は植民地にされませんでした。
日本人は奴隷にされませんでした。
私たちの先祖が、命をかけて、この日本を守ってくれたからに他なりません。
感謝しかありません!
(-人-)(*--)人


今年もまた、広島と長崎の原爆の日がやってきて、

73回目の終戦記念日を迎えようとしています。


いつまでもアメリカ占領軍のWGIP

War Guilt Information Program

日本人に自虐史観を植え付ける洗脳工作プログラムから脱出して、

日本人として

私たちの先祖が、

邪悪な国々と、どう対峙し、どう戦ってこられたのか

その真摯な姿を、今こそ、知らなければいけないと思います。



【大東亜戦争の真実】

日中戦争支那事変は、

壊滅寸前の共産党がしかけたワナだった!! 

『新・真相はかうだ』より 2016/12/02


〉〉〉一般に日中戦争は、1937年7月7日

盧溝橋事件日本軍が侵略戦争を発動したことに

はじまると私たちは教えられてきた。

しかし、それははたして真実なのであろうか? 

本当に日本軍は自らそうしたいと決意した上で

盧溝橋事件を引き起こし、

それを口実に中国に対する「侵略戦争」を開始したのだろうか?

その真偽を探るため、

ここでは盧溝橋事件の36年前までいったん時計の針を戻してみたい。


〉〉〉そもそものはじまりは1901年

義和団事件後に締結された辛丑条約にまでさかのぼります。

当時の中国は、義和団の乱が収束した後も

治安の悪化に歯止めがかからず、事実上の無政府状態でした。

当然、各地では強盗や殺傷事件が頻発し、

外国人居留民の生命財産も脅かされていました。

それなのに、そうした犯罪を取り締まるべき

清朝政府相変わらず政治的混乱が続いており、

このままでは治安の回復は当分望めそうもありません。


〉〉〉そこで、事件後にむすばれた辛丑条約では、

治安維持と居留民保護のための

外国軍による主要都市への駐留も認めることになったのです。

これはある意味、いまのソマリアのようなものだといえるでしょう。

ソマリアには一時期国連軍という名の外国軍が駐留していましたが、

それに対して侵略だなどと非難する人が

その当時いったいどれだけいたでしょうか? 

同様に義和団事件後に中国領内に軍隊を駐屯させるということは、

今で言う国連平和維持軍のようなものだったのです。


〉〉〉このように当時、

日本が軍隊・支那駐屯軍を北京郊外に駐留させることになったのは

国際法に則った合法的な行動であり、

当然ながら国際社会からも認められたものでした。


〉〉〉というより、

地理的に自国軍隊を派遣するのが困難だったヨーロッパ列強からは、

ぜひともという形で日本側に要請された行動でもあったのです。

したがって、これを侵略だ、などいって

非難するのはお門違いもいいところでしょう。

仮にそうしたいのであれば、

その前に自国の治安くらい自国でなんとかしてから、非難してもらいたいものです。


(*'-')//”パチパチ☆


〉〉〉ちなみに当時軍隊を駐屯させていたのは

なにも日本ばかりではありません。

他の列強も同様に軍隊を駐屯させていたのだということも

この際、常識として知っておきたいところです。


そうなんです。


もし、日本が中国を侵略したかったのであれば、

1901年には、軍を駐留させているのですから、

その時点で、さっさと、やればよいのです。


侵略戦争、と言われる日中戦争が始まるのは、1937年

40年近くも何していたのでしょうね?

?(゚_。)?(。_゚)?


という素朴な疑問が出てくるくらい、

「侵略戦争をやったー!」という日本への非難は、

誰にでもわかる大嘘の捏造なんですけど・・・


もう少し詳しく見ていきましょう。



〉〉〉1934年10月蒋介石軍との戦いに敗れた

毛沢東の共産党軍は根拠地の中国南部を脱出し、北西部へと逃れた。

いわゆる大長征である。


〉〉〉1936年秋2年にわたる逃避行の末、

毛沢東の共産党軍はソ連国境に近い延安に到着した。

しかし、そこは不毛な黄土台地にある

中国でも最も貧しいとされる地域であった。

加えて、その兵力は出発時の十分の一まで激減していた。


毛沢東 逃避行 


〉〉〉兵隊はいないし、武器もない。

これでどうやって戦えというのだ? 

いや戦いどころではない。

今いる兵隊たちをどうやって食わせていけばよいのだ…。

毛沢東は頭を抱えた。

http://propagandawar.info/why-ija-in-china/


ところが、

そんな毛沢東に転がり込んできた天からのお恵み・・・


〉〉〉1936年12月12日

国民党軍と共に毛沢東の共産党と戦ってきた張学良が、

叱咤激励しに来た蒋介石を軟禁してしまうという西安事件が起きる。

http://blog.livedoor.jp/kota6053/archives/2009-09.html


〉〉〉「共産党への協力と一致抗日」を毛沢東に迫ったのである。

いわゆる西安事件である。


毛沢東は、蒋介石との戦いに敗れて

東へ東へと、ただただ逃げてきたのです。


その宿敵・蒋介石を、張学良が監禁してくれた~?


∑q|゚Д゚|pワオ!本当?


°゚°。。ヾ( ~▽~)ツ ワーイ♪超ウレシイ!(by毛沢東)


そこで、毛沢東は、


〉〉〉「もし一致抗日に協力してくれるなら、

われわれは喜んであなたの配下になりましょう」と蒋介石にもちかけた。


〉〉〉要は今までのことを水に流し、

倒産寸前の自分たちを吸収合併して救ってほしいという

虫のいい要求であった。


〉〉〉しかし、蒋介石はそう甘くなかった…。

「あいつら前回も俺らの仲間になるふりをし、

勝手に入り込んできておきながら結局裏切ったからな。

そうは問屋がおろさんぞ」


そうなんです・・・・


倒産寸前の毛沢東にとって、

敵を日本と日本軍にして、蒋介石と組めれば、

もう、蒋介石軍にやられることはなくなるのです・・・・


食うに困った瀕死の毛沢東は考えました!


「敵」が「敵でなくなる」方法・・・・


それは、新たな共通の敵を作り出して

そいつを一緒にやっつけよう!と連携すること。


(*Θ∀Θ)σ僕ッテ頭イイー!(by毛沢東)


ですが、

簡単に、「うん」とは言わない蒋介石・・・


だって、すぐに裏切るんだもんね、毛沢東くんて・・・


そこにまた、毛沢東に天からのお恵みが降ってきました・・・


〉〉〉1937年7月7日

北京郊外の盧溝橋で謎の発砲事件が発生。

それを機に日中の小ぜり合いが発生したのである。

世に言う盧溝橋事件である。


〉〉〉これに対し、共産党は

事件発生からわずか数時間後には通電を発し、

全国民に向けて一致抗戦を訴えた。

まるで事件を事前に予知していたかのような

異例の段取りの早さだった。


毛沢東 抗日戦線宣言 


はあ・・・毛沢東さん、大したもんです・・・

(☆゚Д゚)ノ━━ハア!! 


ところが!


〉〉〉あわや全面衝突かと危惧されたが、

日本政府不拡大方針堅持

直後に結ばれた現地停戦協定によって

小ぜり合いはいったん収束に向かった。


〉〉〉毛沢東は落胆した。

日中が衝突すれば内戦より抗日を求める世論が高まり、

それだけ国共合作(国民党軍・共産党軍合作)

もくろむ共産党にとっては追い風となるはずだったからだ。


そうなんです!


なにせ、もう先がない瀕死の毛沢東にとって、

蒋介石軍を敵にしないで、

味方にできる対日本戦になってくれれば、

どんなにありがたいことか・・・・


だけど、日本は、その手に乗らなかったのです。


だって、日本は、

中国に対して何か敵意があるわけでもないし、

なにゆえ、戦争しなきゃならないんだ?

ってことですね。


戦争する理由がまったくないんです!日本には!


だから?


〉〉〉停戦協定が結ばれたその直後から、

どういうわけか日本人をねらった

殺害事件挑発事件が中国各地で頻発

その結果、停戦協定は事実上無効となってしまったのである。


〉〉〉この間に発生した

中国側による挑発事件の主なものは以下の通りである。


7月13日 大紅門事件(爆殺により日本兵4名が死亡)

毛沢東 大紅門事件 



7月25日 廊坊事件(日本軍が銃撃を受ける)

毛沢東 廊坊事件 


7月26日 広安門事件(日本軍が銃撃を受ける)

毛沢東 広安門事件 


〉〉〉北平居留民保護のために、日本軍広部大隊は、

26台のトラックで、北平城内の日本兵営に向かった。


(※中国での「城」は日本の「町」のこと。

中国は大陸なので、周りを壁で囲わないと治安は守れない)


〉〉〉事前に松井特務機関長が

部隊の北平外城広安門(廣安門)通過について

冀察政務委員会当局と交渉して秦徳純市長の承諾を得た上で

連絡の為に、冀察政府軍事顧問・桜井少佐が午後6時頃広安門に赴くと

門を警備していた中国軍が城門を閉鎖していたため、

開門について交渉した結果

午後7時半頃開門され部隊が門を通過を始めたが

部隊の3分の2が通過した時に突如、門が閉ざされ、

広部部隊を城門の内と外に分断した状態で

不意に手榴弾と機関銃の猛射による攻撃

加えてきたため広部部隊も門の内外から応戦した。

https://ameblo.jp/tank-2012/entry-12054686568.html


ひどーい!┌|゚□゚;|┐


そして、
7月29日 通州事件(日本人居留民223名惨殺される)


毛沢東 通州事件 


毛沢東 通州事件

『ああ、悲愁!通州城!』

虐殺、掠奪、破壊、鬼畜の乱舞 無残累々たる死屍』

「この仇とらでは!」

「保安隊の帽子かぶり 奇蹟の生還語る」


毛沢東 通州事件 犠牲者 

残忍に殺された日本女性の検死をする医師


毛沢東 通州事件 東京日日新聞 
『通州保安隊反乱の全貌』

「近水楼に弾丸集中 比類なき鬼畜行動

 我居留民に暴虐の限り」


中国人の保安隊(警備隊)が居留民である日本人を惨殺したのです・・・

保安隊の人だからと、無警戒のところを、やったのです・・・


ΣΣ( ̄◇ ̄;)!ハウッ!?


8月9日 大山事件(大山勇夫海軍中尉が殺害される)
〉〉〉1937年(昭和12年)8月9日、上海において、
日本海軍上海特別陸戦隊中隊長の大山勇夫中尉と
運転手の斉藤要蔵一等水兵が車に乗って
支那の軍用空港だった上海虹橋飛行場に視察に向かったところ、
共同租界用の自由通行路上で支那の保安隊に包囲され、
機関銃で撃たれ殺害された。

毛沢東 大山事件 

〉〉〉大山中尉は自動車のわきに

多数の機関銃弾を浴びて殺された上に、
頭を青竜刀で割られていた


斉藤一等水兵は運転台で多数の弾を受けて死んでいた。

支那保安隊の隊員とされる一名も死亡していた。

〉〉〉同日、日本と支那の間で外交交渉が始まり、

支那側は
大山中尉がピストルで支那保安隊員一名を殺害したので反撃したと主張。

〉〉〉しかし、

大山中尉にピストルで射殺されたとする支那人の遺体を
病院で解剖したところ、体内からピストルの弾ではなく
小銃弾が出てきたのでウソがばれた

〉〉〉また、日中合同調査の報告を受けた海軍省の発表では、
そもそも事件当時、大山中尉は武器を所持しておらず
斎藤水兵も拳銃をホルスターに入れて
肩に掛けながら自動車を運転していた。

支那人が支那人を殺して

死体を大山中尉殺害現場に置いたことが証明された

毛沢東 大山事件 東京日日新聞  
『暴戻!鬼畜の保安隊 大挙包囲して乱射』


日本はこの日、外交官・船津振一郎を介しての和平交渉で、

中国側と最初の会談が行なわれたのだが、
その最中にこの事件が起きたのである。
これにより船津和平交渉は交渉初日に頓挫してしまった。

http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-280.html



日本側は、大山事件当日、

元外交官船津振一郎を介した和平交渉(船津和平工作)で、

満州事変以後、

日本が得た権益のほとんどを放棄するつもりでいた。

そこまでして紛争を終結させようと思っていたのである。


ところが、


〉〉〉不拡大方針にもとづく日本側の和平への努力とは裏腹に

中国の世論はこの間、

どういうわけか過激さを増していく一方だった。

平和を求める声よりも

全面抗戦を訴える論調の方がますます強くなっていったのである。


毛沢東 煽る 


こんな風なビラを撒いて、煽っていたのだから、

どうしようもないですね・・・・


ほんとうに、彼等は鬼畜です!

「鬼畜」は日本では絶対にありません!


ヾ(。`Д´。)ノ酷い!


〉〉〉こうしたなか外国人軍事顧問の教唆を受けた蒋介石

8月13日上海の日本人租界に向けて

突然攻撃を開始した。

第二次上海事変の勃発である。


〉〉〉一連の動きから、

蒋介石が強固な開戦意志を持っていると判断した日本政府は、

それまでの不拡大方針を撤回。

8月15日「南京政府の反省と懲罰」のためとして

日本軍の上海派遣を決定した

http://propagandawar.info/why-ija-in-china/


こうして、支那事変(日中戦争)は始まりました・・・・

が、日本側は、戦争だとは思っていません。

でも、どんどん、深みに連れ込まれて行きました・・・・


〉〉〉さらに、ここでもうひとつ、指摘しておきたいことがある。

それは日本がこの支那事変の発生後、

和平交渉を何度も試みたという事実である。

しかもそれは

戦線が拡大した後でさえ複数回にわたって試みられている。

以下はそうした和平交渉の主なリストである。


1、現地停戦協定(松井-秦徳純協定)1937年7月11日


2、宮崎竜介和平工作 1937年7月19日


3、船津和平工作 1937年8月9日

  同日午前、大山大尉殺害事件が発生し中断

4、トラウトマン和平工作 1937年11月5日

5、汪兆銘和平工作 1939年〜1940年


6、桐工作 1939年〜1940年


これだけ、何度も、和平に持ち込もうと日本側がしていたのです。

しかし、中国側は、すべて拒否しました・・・・



〉〉〉日本軍の正式派兵と

激昂する国内世論を受けた蒋介石は徹底抗戦を表明。

8月22日、共産党軍を国民党軍に組み込み、

ともに一致抗日をはかることを正式に決定した。


〉〉〉ここに共産党の悲願であった第二次国共合作が、

ようやく実を結んだのである。

おそらく毛沢東は

してやったりとほくそえんだことであろう


〉〉〉その20年以上も後のことである。

1964年、訪中した日本社会党の委員長が、

過去の戦争への謝罪を述べたのに対し、毛沢東はこう答えた。

何も申し訳なく思うことはありません。

日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、

中国人民に権力を奪取させてくれました。

みなさんの皇軍なしには

われわれが権力を奪取することは不可能だったのです


〉〉〉また中国共産党が発行した

『初級事務戦士政治課本』というパンフレットには、

盧溝橋での発砲事件は党中央の指令を

劉少奇同志が実行に移したもの」と記されているという。

劉少奇 妻 

劉少奇と妻


なんと!

シナ事変の発端となる盧溝橋の発砲事件は、

毛沢東・共産党がわざわざ起こしたものだったのです・・・・


そして、

中国側は、開戦以来、負け戦続きだったのです。

しかし、どういうわけか中国は戦争をやめなかった。

むしろ強気で交渉に臨み、

なにやかや理屈をつけては一方的に交渉を打ち切るという

高飛車な態度をとり続けた。

中国は和平など望んでいなかったのです。

http://propagandawar.info/post-3226/


蒋介石と毛沢東、

彼等の後ろから支援する勢力があったのです。

それは・・・・


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