織田信長は、なぜ天下を取ろうと?誤解をまず解こう。

 05, 2016 22:45
本能寺大寶殿宝物館では「大信長展~信長とその一族・家臣・ライバルたち~」が開催中。
信長本人はもとより、その一族、家臣たち、
信長没後天下人となった豊臣秀吉や徳川家康、さらに信長のライバル大名たちの古文書や肖像画のほか、
信長の時代に隆盛を極めた茶の湯の道具の優品など60点が展示される。


戦国最大の事件ともいわれる「本能寺の変」が起こった跡地には、
「京都・元本能寺跡信長茶寮」が建てられ、信長の慰霊碑が祀られている。
本能寺の変が起き、信長の命日とも言われている6月2日(木)には、毎年「信長茶寮大祭」が開かれる。


本能寺の変は、天正10年6月2日に起きたので、

「6月2日」に「信長茶寮大祭」を行っているのですね・・・・

(o^∇^o)ノナルホ!


西暦に直すとユリウス暦とかあるし、ややっこしいからね・・・


現在の西暦・グレゴリウス暦で換算すると、

本能寺の変は、1582年7月1日


信長を主人公にしたまんが「いくさの子」も、絶賛連載中だそうですね。


まんがのタイトルが「いくさの子」とあるように、

確かに、織田信長の一生は、戦いに明け暮れていました。


信長だって、人が殺し合う戦が好きだったわけではないと思うのです。


今回、信長のことを調べてみて、
この時代のことには、本当のことではないのに、
信じられてしまっていることがたくさんあることがわかりました。

それを教えてもらったのが、鈴木眞哉氏の著書でした。


『戦国時代の大誤解』 鈴木眞哉 初版2007年2月

戦国時代の大誤解


本当の信長を知らない限りは、何も論じることはできませんし・・・



第二章「歪められたヒーローたち」

軍事面でも信長の独創性・先進性が強調されることが多い。
果敢な奇襲作戦を行った、
いち早く鉄砲に着目して大量に使用した、
そのための新戦術を開発した、
鉄船をつくったといった類のことが、
教科書や歴史事典にはいくらも出てくる
。」


しかし、これらは、「いずれもあまり根拠のある話ではない」とのこと。



信長は無神論者だった」、というのも、誤解されているひとつだそうで、

「そう言って、信長の近代人性を強調したいのかもしれないが、
これは、宣教師のルイス・フロイスの書いたものをいいかげんに解釈していることによる
フロイスは、信長の無神論的な行動は、禅宗の教えに従ったものだと明記しているのである。


「信長関係の史料を見れば容易にわかることだが、
彼も自分に縁のある神社などは大切にしているし、
寺社に祈祷を依頼したりもしている。
安土城にもわざわざお寺を建てているが、
フロイスによると、本人が神様となって拝まれるつもりだったのだという。」



えっ、Σ(゚口゚;

「神はいない=無神」と思っている人間が、
なぜ、いないと思う神になりたがる???


フロイスが言っていること自体が矛盾している
Σ( ̄ε ̄;|||・・・



信長の本領は、戦略家・政略家としての面にあった
そのことは、彼が大阪の本願寺と戦った石山合戦などを見れば、明瞭である。

この戦いでは、戦略的な着眼はよかったが、
戦術的には相手方にやられてしまうような場面がしばしばあった。
それでも、最終的に本願寺をねじ伏せてしまったのは、
本願寺と同盟する勢力、これを支援する勢力を巧みに潰したり、
押さえ込んだり寝返らせたりした戦略的成功
、の結果である。
仕上げは、天皇を担ぎ出しての勅命による講和というあっと驚くような政略で、
これによって相手の面子も立てながら、決着をつけてしまった」

「こうした戦略・政略の才能を正当に評価してやらないで、
根拠もない鉄砲使用の新戦術だの、鉄船だのを褒めちぎるのは、
ピンぼけもいいところである」

ハイ(^-^)/まさにその通り!



「信長の業績で意外に見落とされているのが、聖俗分離ということだろう。
近世史家の大石信三郎さんは、
信長が手荒いことをやって宗教勢力を押さえ込んだことで、
神仏の支配から人間が自立し、
江戸時代になると人間的な文化の蓄積ができたのだと指摘し、
これは従来、歴史家が取り上げなかったことだと言われた。


聖と俗の分離は、欧米諸国でも、まだ完全には行われてはいない。
それが日本で実現したのは、信長の後世へのたいへんな贈り物だった、
そのことは、たしか作家の塩野七生さんも、何かで強調されていたことがある。



【桶狭間戦いは、奇襲ではない】

奇襲説に異議を唱えたのは、藤本政行さん
これまでの桶狭間の物語というのは、
江戸時代の初期に小瀬甫庵という作家が書いた『信長記』という書物に基づいていた。
信長の旧臣・太田牛一が書いた『信長公記』には、
義元が上洛を志していたとか、信長が奇襲をかけたということはいっさい出てこない。
それどころか、信長は今川勢に真正面から攻撃を仕掛けたとある。

「ところが、甫庵流のフイクション明治時代に陸軍参謀本部がつくった『日本戦史』で採用され、
学者や軍人がもっともらしく解釈を加えた結果、普及・定着してしまったのである。
藤本さん流に言えば、戦国大名同士のありふれた国境紛争にすぎなかった

とのこと。


では、なぜ、『信長公記』は史料として信頼できるのか、というと、

太田牛一が見た信長」で、実際に見聞しているということ、
暴虐性もありのまま」書かれており、
畏敬の念ゆえの事実描写」だから、とのこと。



天正三年(1575)5月21日の長篠の戦いといえば、
怒濤のように突進してくる武田の騎馬隊を、
馬防柵の背後に三列に構えた織田信長三千の鉄砲隊が三段撃ちで打ち倒すというのが、
定番の表現になっている。
大河ドラマでも、もちろんそうした演出をしているが、
これをもっとも鮮明なかたちでやったのは、黒沢明監督の『影武者』だろう、

「こうした場面などありえなかったということは、
私を含めて複数の人間が何十年も前から主張してきた。
最近では、学界でもかなり受け入れられているが、
NHK様などは、依然として〈定番表現〉にしがみついておられるようである。

武田方には、騎馬隊などといえるようなものは、そもそもなかった
それ以上にひどいのは、武田方の鉄砲が無視されていることだ。
最近もどこかの民放テレビ局が、代わりに投石部隊がいたなどと、まことしやかに流していた。

この長篠合戦が騎馬vs鉄砲の戦いだったかのような話の元をつくったのも、小瀬甫庵である。



【信長の鉄船】

「嘉永六年(1853)アメリカのペリー提督が引っ張ってきた四隻の船も「黒船」と呼ばれたが、
すべて木造船だった

ガ━━(゚Д゚;)━━ン! し、知らなかった・・・


「それではみなさん、何を根拠に鉄船鉄船と言っているのかというと、
奈良多聞院の英俊という坊さんの日記である。
そこに「鉄ノ船也」とあるのを、唯一絶対の証拠としてそういう主張を展開しているのである。
もちろん、それが信じられるならそれでもよいが、
英俊は、オルガンチノのように船を実見しているわけではない。」


英俊の日記は、伝聞だけにまだおかしなところがあって、
船の大きさも、間違えているそうです。



一向一揆というのは、一向宗徒、つまり浄土真宗本願寺派の門徒が中心になって起こした一揆である。
この一向一揆には、戦国の諸侯も大いに苦しめられた。
信長などは、その最たるもので、
本願寺との戦いは二度の休戦をはさんで前後11年におよび、
彼の天下統一プランは、すっかり狂ってしまった。
宣教師のコェリョは、信長の死ぬ数ヶ月前に出した報告のなかで、
本願寺の坊主どもがいなかったら、彼はとっくに日本全国の王となっていた
と言っているが、
坊主が戦ったわけはないから、一向一揆という意味にとるべきだろう。」


信長の一生は、天下を配下に治めるための戦いの日々だったんですね。



苛烈・過酷で執拗なところがある一方、

寛大さとこまやかさもある信長、

次回、もう少し掘り下げて見たいと思います。


【お詫びと訂正】

5月8日の「織田信長の本当の生年月日」のところで、
15・・とするところを、19・・と、表記した箇所がありました。
訂正し、お詫び申し上げます。
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