信長は神様になろうとしていたの?それとも・・・

 13, 2016 20:27
信長は、高層建築の安土城を築いて、そこに住みました。

それまでの城は、籠城して戦うための砦であって、住居ではありませんでした。

安土城


天正7年(1579年)にできあがって、本能寺の変のあとに焼けてしまった幻の城ですが、


『信長公記』によると、

石蔵の高さは12間余り、この石蔵の内側を土蔵として使い、これを一階として七階まである」


石蔵は、基礎となるところの石垣の部分ですが、
「高さが12間」、注に「22メートル」とあるのですが、
これって、普通のマンションなら、7階分ですよね?

スフインクスの高さが、20メートルですから、
基礎の部分に、スフィンクスの高さを超える石垣を作ったということになります。


石蔵の上が、二階で、その広さは、
南北が20間(36m)、東西が17間(31m)、
その上、高さは16間半(30m)、
柱の数は204本・・・・



Σ(゚□゚ノ)ノエー!Σ(*゚◇゚*)ウッソー!Σヾ(*゚○゚)ノホントー!


だけど・・・う~ん・・・???

それにしても、2階が36m×31m×30mの立方体って、どういうこと?

??(・_・*)(*・_・)(*~^~)/??
やっぱりおかしいよね???

16ではなく、1.6の間違いではないかしら・・・
小数点が消えてしまった、とか・・・

『信長公記』も、原本が残っているわけではなく、
写本なので、写し間違いもあるので、絶対ではないのですが・・・


さて、安土城の特異性は、六階と七階です。

六階は、平面八角形で、四間ある
外の柱は朱塗り、内の柱は金色。・・・」

最上階七階は三間四方、
座敷の内側はすべて金色、外側もまた金色である
。・・・」

なので、天守閣が金色なのだ!

オオーw(*゚o゚*)w



この目を引く作りの安土城に関して、小和田哲男氏は、

城下のどこからでも壮麗な天主が見えるようにして、
人々に自分の権威を示したのです。
しかも従来にない新しいものを見せることによって、
信長の天下になれば、これまでとは違った世の中になるということを人々に印象づけました。


現に派手好きの信長は、城下で度々相撲大会を開いたり、
天主を提灯でライトアップするなど、これまでにない盛大なイベントを企画しました。
天正10年(1582)の正月には、天主の隣にある本丸御殿を見物させて
自ら百文ずつの見物料を受け取ったりもしています。


このような演出を目の当たりにすれば、
民衆は信長に靡いて新しい政策も受け入れますし、
敵対者も信長と戦うのはあまり得策ではないと考えるようになります。


こうした発想は、やはり天下統一を狙う人物ならではのものでしょう。
信長の天下統一事業の後継者となった秀吉も、同様の発想で大坂城や聚楽第を築きました。
そうした意味で、安土城は、城郭が新たな機能を備える画期となった城と言えます。
http://ironna.jp/article/374



信長の時代は、群雄割拠の時代でした。

それを、中部地方から西は岡山、四国の一部まで、信長は平定したのです。


だけど、いつ寝首をかかれるかもわからないのが、この時代です。

だから、信長は、枕を高くしていられる方法を考えたのだと思います。


それが、この豪華絢爛な安土城だった、ということなのでしょう。


鈴木眞哉氏から、
「信長は、おそろしく威張っていた。
『オレ様人間』の見本のようなものであり、自己愛の塊のようなところがあった」
と、酷評されている信長ですが、

その威張り方は、

宣教師のルイス・フロイスは、1569年(永禄12年)六月に同僚に出した書簡で、
「日本の王侯は悉く軽蔑し、
下僚に対するが如く肩の上より之に語る。
諸人は至上の君に対するが如く、之に服従せり
と言っている。

同じ年、フロイスは岐阜に信長を訪れて、七月にまた書簡を送っている。
そのなかで、最も驚かされたのは、
部下たちが戦々恐々と信長に奉仕していること、
外来の者たちが彼を尊敬していることであったと、記している、
信長がさっと手を振って退がれと言えば、
誰もかれも「眼前に世界の崩壊を観るが如く」競い合うように下がってしまう
とか、
将軍に近く、都で権勢のある者も、信長の前では顔を上げることもないとかいうのである。

日本人修道士のロレンソ・メシアは、信長の死の前年の1581年(天正9年)10月に出した報告の中で、
「この異教徒(信長)は、はなはだ尊大にして、
ほとんど神に対するが如き尊敬を受け、世界に並ぶ者なしと思われている
とか、諸国においては信じられないほど、彼を畏れているとか記している。
『戦国武将 人気のウラ事情』 鈴木眞哉


こいつはやっつけられる、と、思ったら、領土をかっぱらいにくるのが、戦国時代。

このくらい畏れられて、だれも謀反も反乱も起こせない、という状態にしておかないと、
安心なんかしていられない時代だった、ということだと思います。



蟹座は、水星座です。

魚座と違って、殻で体を囲っているとはいえ、

また、陸上でも息ができるのですが、魚と同じく、えら呼吸です。

それは体内に溜めた水を使ってのものなので、

長時間、水から離されたら、生きていけません。


つまり、弱い生き物なのです。


なので、
蟹座は、自己防衛本能はものすごく強くて、
自分や身内を守ろうとします。


逆に、負けるとわかっている相手には、無謀な戦いは挑みません

長いものには巻かれろ、です。



鈴木眞哉氏が、

『神様』信長が媚びを売った相手」と題して、出てくるのが、

武田信玄と、上杉謙信なのです。


元亀二年(1571)12月には、信長は信玄に使者を送って、
貴方に対して家康が慮外なことをしているようだから、岐阜に呼んで意見しましょう、と申し入れたという。
三方原の戦い(1572年12月)ののち、信玄から手切れ(断交)を宣言されたときも、
家康が間違いを起こしてはいけないから家臣をやっておいたのに申し訳ないことになった、とか、
家康とは手を切るから息子の信忠を婿にしてほしい、とか、いろいろ釈明したという

この数ヶ月後に、信玄は病死している。
信長のほうが、信玄を怒らせないよう、気を遣っていたのであろう。
(同上)


上杉謙信に対しては、というと、

謙信は天正五年(1577)八月、信長の差し向けた柴田勝家らの遠征軍を加賀手取川の戦いで打ち破った。
そのあと、彼は使者をやって、信長に挑戦状をたたきつけた
ところが信長は、貴方(謙信)の強さは魔利支天(仏教の武勇の神)のようなものですから、
とてもお手向うなどできるものではありません
と、まずへりくだってみせた、

それに続けて、貴方が上洛してこられたら、
自分は扇子一本腰に差して途中で出迎え、都への案内を務めますとも言った。
そうすれば、貴方も私(信長)が骨を折って切り取ったところを召し上げるとは申されますまいから、
私が西、貴方が東というかたちで日本を統治することとし、
公方様(将軍)を取り立てるということでいかがでしょうと提案した。
使者からそれを聞いた謙信は、それは信長の本心ではあるまい、と言ったという。
(同上)


「神様」のように振る舞うくせに、土下座外交する、と言われるのは、これなのですが、

自分の弱さをしっている蟹座だからこそ、自分を強く見せて、

本当に強い相手には、絶対に逆らわない外交術でしのぐ
のだと思います。



では、天皇に対しては、どう考えていたのでしょうか。


永禄10年(1567)11月9日、
正親町天皇は信長を、『古今無双の名将」と褒めつつ、
御料翔の回復と誠仁親王の元服費用を求めたが、
信長は丁重に、「まずもって心得存じ候(考えておきます)」
と返答したのみであった。(wikipedia)


元亀元年(1570年)3月、
正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、
信長は何の返答もせず、事実上無視した。

足利義昭を将軍に擁立した信長は、
この前年に、義昭の権力を制限するための『殿中御掟』、
9ヶ条、のちには加えて7ヶ条を認めさせたばかりです。

だから、
「なんで、将軍の下の副将軍にならにゃあ、いけんの?」
と言ったかどうかは知りませんが、
無視したのは、そういう理由なのだと思います。


『信長公記』によりますと、

永禄12年(1569年)には、「これからはきちんとした将軍御所がなくては不都合だ」と、
石垣を四方高くして、格式を高めるために金銀を飾り、
庭に名石をいれるときには、信長自身が指揮までして、普請していますし、


内裏の朽廃はなはだしく、元の姿をとどめぬほどだったので、
二年かけて内裏を修復しています。

だから、天皇・将軍をないがしろにしたわけではありません。


過去記事の「信長が天下統一できたのはなぜ?」で、触れましたが、
http://uranaiwanko.jp/blog-entry-124.html

信長は経済力も、軍事力も、持っていましたから、
それなりにあしらってはしまいますが、

天皇を超えよう、と思っていたわけではないと思います。


将軍のほうは、というと、
元亀四年に、将軍は謀反を起こし、一度は和睦したのですが、
また、挙兵して負けてしまいます。

このたび将軍は格別の不足もないのに、早々に信長の恩を忘れて敵対したのだから、
ここで切腹させてもよいのだけれど、
それでは天の道に背いて恐ろしく、今後の成り行きにも差し障りがあろう。
命だけは助けて追放し、後の世の人々の批判に委ねよう。

と、信長は考えたと、『信長公記』では記しています。


「将軍」という地位に対しても、それなりの敬意は持っていたと思われます。


それでは、信長は神になりたかった?

また、次の課題にします・・・ヾ( ´ー`)ノ~ばーい



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