信長が天下統一ができたのはなぜ?占星学が明かす織田信長像
- 2016/05/11
- 10:47
東洋と西洋の占星学で、織田信長像を解明してみましょう。
天下統一には、あと一歩でしたが、
信長がいなかったら、秀吉、家康による天下統一はあり得なかったのです。

織田信長 1534年7月3日生まれ
太陽 蟹座
月 射手座(午前7時13分までは、さそり座)
火星 獅子座 金星 双子座
日干支 戊寅 申酉天中殺
※前回、年度間違いで、月と火星が違っていました。訂正します。
信長は、
幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、
周囲から尾張の大うつけと称されていた(『信長公記』)
また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた
「信長公記」には、
とても人前に出られないような服装をしたり、
歩き方もだらしなく、栗や柿を歩きながら食い、
それも人の肩に寄りかかって歩いたしたと記されています。
また、父・信秀の葬儀の時も異様ないでたちをして現れ、
抹香を位牌にたたきつけて立ち去るなど奇矯な振る舞いを行いました。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1226450717
信長の命式を見た瞬間、なるほど!やっぱりねー!って思いました。
天将星が二つ!
(゚ロ゚)/(゚ロ゚)/(゚ロ゚)/(゚ロ゚)/(゚ロ゚)/オォー、ナルホド!ソウイウコト!
天将星のエネルギー値は、無限大です。
その無限大が二つです。
その一つは、成人するまでの初年に持っており、
この有り余るエネルギーが、信長の「大うつけ」行動をさせていたのでしょう。
このエネルギー値を消化しようとしたら、
とても、お利口に、城の中で過ごすなんて、できないだろうと思います。
「身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた」というのも、納得です。
天文22年(1553年)、信長の教育係であった平手政秀が自害。
これは諌死であったとも、息子・五郎右衛門と信長の確執のためともされる。
信長は嘆き悲しみ、沢彦を開山として政秀寺を建立し、政秀の霊を弔った。(wikipedia)
信長17歳のときに、信秀が死去し、家督を継いだのに、
大うつけの行動をやめなかったのではないでしょうか?
政秀は、息子と信長の確執を解かねば、平手家も息子もだめになると思ったのかもしれません。
しかし、教育係である政秀の自害は、
単なる大うつけから、大きな人間に変える契機となったと思われます。
さて、
二つの天将星の、天将星のもうひとつは、
20歳から60歳までの働き盛りの時期にあります。
桶狭間の戦いを始め、弟が謀反を起こした稲生の戦いでは、
自ら敵将の首を討ち取り、
長良川の戦いでは殿軍をつとめ、
一乗谷城の戦い、石山本願寺砦での戦いでは総大将でありながら、
自らが先頭に立って奮戦した。
大名自身が危険を顧みず、最前線にて戦うことが多いのも異例である。
http://senjp.com/oda1/
「殿軍」」というのは、
「大部隊が移動する時、その最後部(=殿)に位置する軍勢。
特に、退却軍の後部で、敵の追い討ちを防ぐ軍勢。しんがり。」
のことだそうですが、
信長は、有り余る天将星のエネルギー値を持っているので、
後ろで何もせずに、戦いを見ているなんて、できなかったのでしょうね。
信長が領地とした場所は、大まかですが、
尾張(愛知県半分)、美濃(岐阜県)、伊勢(三重県)、
越前(福井県)、畿内(大阪府)、滋賀県
甲斐(山梨県、長野県)、大和(奈良県)、丹波(京都)、
丹後(兵庫県、鳥取県)、淡路、伊賀(和歌山県)、
加賀(石川県)、富山県、
当時の東京は、家康が整備するまでは、沼地でしたから、
本州の重要地点をほぼ掌握した格好になるでしょう。
(ノ゚∇゚)ノ⌒☆オミゴト☆!
その後の秀吉、家康が日本という統一国家にできたのは、
信長がこれだけの広さを平定したからであることは、間違いないでしょう。
もちろん! (*'-^)db('ー^*) 納得デス!
信長の偉業は、これだけではありません。
1574年から大規模な街道整備を行って、
道を広く、まっすぐにする、川に橋をかける、関所を廃止するだけでなく、
一定間隔で飲食店を設置させている。
これにより、街道における治安が向上し、
人の往来が容易となり、商業が活性化して、税収が増えた。
これは、自分の軍の侵攻スピードも向上するかわりに、
敵軍の侵攻も早くなるので、戦国大名の多くは、道路整備は行っていなかったのです。
そう、これも、
天将星二つの信長だからこそ、
普通の大名では、怖くてできなかったことをやれたのだろうと思います。
パチッ☆-(^ー'*)bオッケー♪
また、城下町では「市座」「問屋」などの、
既存の独占販売権、非課税権、不入権などの特権をもつ商工業者を排除して、
「楽市楽座」という自由取引市場をつくって、経済の活性化を図りました。
通行税もないので、領内の物流が盛んになり、
物資が熱田津などから陸揚げされることになり、
港での税金収入が織田家の大きな収入源となっていたそうです。
当時の領主が農民からの年貢がその主な収入だったのを、
信長は貿易や、港の運用という経済発展で、税収増加を図ったのです。
(b^ー゚)!!(゚∇^d)~~ ベリーベリーグッド
消費税をあげて、税収を上げるのではなくて、
信長さんが、証明しているではないですか!
経済の活性化=経済発展で、税収が増加するって!
さらに、信長は、南蛮貿易で稼ぎ、
珍しいものゆえ、高額で売れるので、潤沢な軍資金を手にしました。
安土城を琵琶湖の傍に築いたのも、水運利用という利権のためでした。
(「織田信長という人物に迫る~【織田信長】の性格・人柄は?」から、一部言葉を換えて引用)
さて、当時の戦いでの問題点は、
農業従事者を戦時の時だけ兵士として用いる農兵の方法だと、
田植えに時期、稲刈りの時期には軍事行動はできなかったのです。
農兵は領内各地から集合させるため、その集合のために数日要する事となり、
それゆえ、上杉謙信や武田信玄などは、夏や冬だけ戦をすることが多く、
田植え、稲刈りの時期になると、兵士が帰国したがるため、士気があがらず、苦悩していました。
しかし、信長は農業に従事しない職業軍人としての武士集団、
つまり、「プロの軍隊」=軍人を組織し、城下町に住まわせました。
武家の次男、三男を城下町に住まわせたのが、始まりで、
次男であった前田利家はその好例でしょう。
その後は、家督を継げない武家の次男、三男だけでなく、
兵になりたいと希望する農民からも、常時兵士化した。
「兵農分離」の先駆けで、
平時には、戦闘の訓練を行うことができ、兵士の育成が計れて、
兵士の戦闘力も経験値も上がっただけでなく、
季節を問わず軍事行動を開始できるようになりました。
(「織田信長という人物に迫る~【織田信長】の性格・人柄は?」から、一部言葉を換えて引用)
信長は、領土を拡大した以降は、最初から無謀な戦いはしないで、
常に敵を圧倒する大兵力を動員して攻撃する正攻法の作戦を取ったそうです。
また、
このような革新的な政策・軍略を考えついたのには、
幼い頃から教育を受けていた沢彦宗恩が、信長の参謀として活躍していたからかもしれない(同上)
長くなるので、今日はここまでにしますね。
まだまだ、あります。次を乞うご期待!
ヾ(@^▽^@)ノ~~~~~~~~~マタネー
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