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織田信長が苛酷で苛烈な人間だったのはどうして?

織田信長は、暴虐な人間というイメージ

「太田牛一の『信長公記』が、この信長のイメージをつくるのに貢献しているといったほうがよいのかもしれない」

と、鈴木眞哉氏。


元亀二年(1571)の比叡山の焼き討ちも有名だが、
このとき斬られたのは僧徒ばかりでなく、女性や子供にも及んだ。
さすがに信長の周囲からも助けてやっては・・・という声があがったらしいが、
御許容なく、一々に頸を打ち落とされ」たと牛一は記している。

近江、伊勢長島、越前、加賀など各地の一向一揆や敵側の民衆に対するやりかたもすさまじい。
一揆僧俗数多切捨てられ」た、
男女を問わず「斬り捨つべきの旨仰せ出され」た、
僧俗・男女嫌いなく、投げ伐りに切り殺し」たという類いの記述がいくらも出てくる。

天正二年(1574)、長島の一揆を攻めたときは、
いったん降伏を認めておきながら、
舟で退城しようとする者に銃撃を浴びせ、
岸に逃れる者は討ち捨てさせた。

一揆勢のいうち、7、800人ばかりが死にものぐるいで反撃してきたため、
信長方はかえって切り崩され、
織田一族の何人かを含め、多数の戦死者が出た。
信長はこれに腹を立てたのか、
砦に残っていた男女二万ばかりを押し込めておいて、ことごとく焼き殺してしまった。

この長島の事例などを見ると、信長は、単に苛烈、苛酷であったというだけではなく、
自ら行う背信行為は意に介さない人間だったことがわかる。
こうした例はほかにもあるが、一つには、いったん敵となった者に対する執拗さという観点からみるべきなのかもしれない。
「『信長公記』に見る信長の性格」 鈴木眞哉著



織田信長の生年月日は、1534年7月3日
太陽 蟹座
月は、蠍座(am7時13分まで、それ以降)射手座です。


蟹座の性格は、過去ブログの「蟹座のお話」のところで説明しましたが、

http://uranaiwanko.jp/blog-entry-24.html


蟹という生き物が、自分の内蔵を殻で包み、外界から守っているように、
硬い殻の中と、外とを、完全に分ける性質があります。



硬い殻の中は、「身内=家族」として認識し、
殻の外は、「他人」
です。


さしずめ、信長の時代では、「味方」と「敵」だったのだと思います。



鈴木眞哉氏は、「いったん敵になった者に対する執拗さ」と分析されているが、

蟹座の信長は、自分の殻の中の「味方」と、
殻の外の「敵」とをはっきりわけた
のだと思います。



信長が、最初に身内に裏切られたのは、
信長22歳の1556年、弟・信行(信勝)との稲生の戦いでした。


信長に当主の器量無しとみた、林通勝、柴田勝家らは、
聡明で知られた信長の弟・信行を擁立したのですが、
信長方が圧勝、信行は降伏。
生母・土田御前の仲介により信行らを赦免している。

また、この年、庶兄の信広も清洲城の簒奪を企てたが、
事前に情報を掴んだために、未遂に終わり、信広も赦免している。

ただ、翌年、信行は再び信長に謀反を企てたので、
この時はさすがに許さずに処刑しているが、
信行の子の津田信澄は、家臣に取り立てている。


まだ、この頃は、敵となったからと言って、親族を殺してはいないんですね。

(´▽`) ホッ 

だけど、実の弟に?∑('□'*('□'*('□'*('□'*)ガビーン!!



信長には、
宿敵朝倉義景、浅井長政らの首級を漆で塗り固め、
金泥などで彩色して宴席に持ち出した
という話があります。


妹・お市の方を浅井長政に輿入れさせた浅井長政の裏切り以降、
苛烈、苛酷となっていったのかも・・・


ですが、
当主となった20代の時から、身内でも裏切る、という事態に直面している信長は、

この戦国の世では、いつ裏切られるかわからない、と、考えるのは、当然でしょう。


そして、そのときに身を助けるものは、「兵力」であることを、
弟・信行との戦いのときに、身にしみて知ったのだと思います。


1559年25歳になるまでには、尾張国の支配権を確立して、

室町幕府・足利義輝に謁見していますが、

翌1560年5月には、今川義元が侵攻してきて、桶狭間の戦いになります。


つまり、幕府に謁見しても、何も領地は担保されなかったわけです。


自分自身の兵力をつけて、天下を取らない限り、
枕を高くして寝ることすらままならない、という現実を知った
のだと思います。


それが、信長が天下を取りに行こうとした理由だったのではないのかしら・・・
その旗印が「天下布武」

♪(゚ー゚*)(。_。*)ウンウン♪そう思う・・・


信長地図


鈴木眞哉氏は、
相手の裏切りは絶対に許さないけれど、
自分の背信行為は、やり放題、と、信長を酷評していますが、


しかし、戦国時代においては、自分とその一族を守るためには、
背信行為というより、戦略としての相手との駆け引きは必要だった

そうしなければ、自分が次にやられる、そういう時代が戦国時代だったと考えないと、正当な評価ができなくなってしまうのではないでしょうか・・・


比叡山での焼き討ちで、女子供まで殺したのは、
その子供たちが大きくなったときに、蜂起してくることを考えたからではないでしょうか。


敵対するものは、芽を摘めるときに摘んでおく
それが、この時代を生き抜くための常識だったのではないでしょうか?


そのことは、信長の首を狙おうとした弟・信行を赦免したけれど、
その翌年に、また狙ってきたのです。

たとえ血を分けた弟といえども、信用できないことを、信長は、身をもって学んだのだと思います。


「信長は、おそろしく威張っていた。
『オレ様人間』の見本のようなものであり、自己愛の塊のようなところがあった。
天正三年(1575年)信長は越前の支配を柴田勝家にまかせることとし、
前田利家ら三人をその目付とした。
そのときに彼らに与えた指示の一条に、
とにかく俺を尊敬しろ、俺のいるほうには足も向けないような心持ちでおれ、とある。
こういうことをおおまじめに言う人だったのである」
鈴木眞哉 『戦国武将・人気のうら事情』

こんな信長の様子から
「本人が神様同様に見られていただけでなく、
本人が神様になって拝まれようとしていたというのが、
フロイスの主張
である・・・」(同上)

というように、思われても仕方がない信長の言動ですが、


これは、大国・越前を任せる柴田勝家らに、
裏切られて自分の寝首をかかれないようにするためのものだったのでは?、
と、考えられるのではないかしら。



信長は、足利義昭を将軍に据えながら、
五年後には、彼を追放
しています。


「永禄13年(1570)正月、信長自身が出した文書には、
自分が天下をまかされていて、それを切り盛りできるのだという観念がはっきり示されている。
その後も同じような趣旨の文書が出されている」(同上)


戦国時代にあっては、自分の身の安泰をはかるには、
自分の上に誰もいないことしかなかった
のではないでしょうか。



義昭を将軍に据えたけれど、それを追放したのは、
自分が担いだ義昭だって、信長の身の補償はしない、ということ、
逆に、信長が追放される恐れもあること、

それを誰よりもよく知っていたのが、信長だったのではないかしら・・・


蟹座は、獅子座や牡羊座のように、強くないことをよく知っているのだと思います。

だから文書にまでして、自分がトップであることを、保障したかったのだと思います。

獅子座なら、自分の強さを知っているので、こんなに用意周到にはしないでしょう。



信長が敵対するものは、女子供といえども、容赦なく斬り捨てたこと、

そして、将軍より強くて、天下一であることの文書を出したのも、

それは、自分の身を守るためだったからであり、

信長が蟹座だったからなのではないでしょうか・・・




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