富士そば社長・丹道夫、《ホワイト企業》になった理由とは(後編)
- 2016/11/19
- 20:19
東京に出てくるまでのところを、前編①でご紹介しました。

後編は4度目に東京に出て来てからです。
1960年、24歳、東京栄養食糧専門学校卒業。
病院の栄養士に就職したが、父の病気で再び帰郷。
1961年、4度目の上京で、食品会社に勤めるも、
埼玉県川口市に弁当屋を開業・・・・
「最初にスタートさせた弁当屋は、
田んぼのど真ん中にありました」
と微笑みながら説明しだす丹社長。
閑散とした郊外立地にもかかわらず、
弁当屋は瞬く間に地元で評判の店となったという。
(ノ*゚▽゚)ノ すごーい!
そしてその繁盛ぶりに目を付けた不動産業者がある日、
丹氏に近くの駅前物件を紹介した。
「いい場所があるのでそこにも出店したらどうか」と。
丹氏は当時、商売を拡大させるつもりはそれほどなかった。
しかし、
「不動産業業者が物件を借りてくれ、と頼んできたので
駅前の物件で立ち食いそばの店を始めました。
“情けは人のためならず”という言葉が念頭にあって、
不動産屋さんのためと思って、
私は無償で立ち食いそば店を始めました」。
丹氏の人間力が最初に輝きを放ったのはこの瞬間である。
“情けは人のためならず”の言葉通り、
他人のために一銭も受け取らずにボランティアで始めたそば店が、
後に、30年以上も続く大ヒット業態へと成長するのである。
他人のためにはじめたことが、自分へと戻ってくるのである。
http://in-shoku.info/foodfighters/vol51.html
弁当屋を始めた1961年は、丹さん、25歳。
初動天中殺が3歳から23歳までですから、
ちょうど、この大運天中殺から抜けていましたね。
継父の病気で前年に愛媛に戻っていましたが、
天中殺が明けた丹さんには、
見えてる世界がそれまでと全く違っていますし、
また、天中殺が明けたあとは、
丹さんの運気は、大半会と言って、
丹さんの世界が大きく大きく広がる時期でもありました。
だから、
東京に出たい、もっと広い世界に出たい、
という思いは押さえられなかったでしょうね。
初動天中殺の人は、
この時期に、あまり幸運でないほうが、天中殺明けた後の人生が楽になるのです。
天中殺は、夢見ている時期。
その天中殺が明けると、目が覚めて、
意識が現実の世界に戻ります。
特に
初動天中殺の人は、中年期に
それまでの人生観が大きく崩れるときがきます。
初動天中殺の時期の人生観を変えることができないと、
人生が行き詰まってしまうのです。
しかし、丹さんは、
継父にいじめられ、高校も諦めざるを得ず、
丁稚奉公に出ました。
東京に伝手を頼って出ても、採用されず、
次に福島の常磐炭鉱で働きながら、
夜間高校に通います。
これほど辛く大変な若年期を過ごされたから、
これを反面教師にして、
従業員を守ろうとする社長になられたのですね。
(*゚▽゚ノノ゙☆パチパチ
1965年、31歳、友人と東京で不動産会社を興す。
このころは面白いように儲かったそうです。
ちょうど、高度経済成長時代だったのですが、
丹さんの運気は、この年、年運で大半会がもうひとつできて、
大三合会局となりました。
大三合会局は、最も大きな干支の融合で、
宇宙的なひろがりをもちます。
だから、でしょうね。
あちらにもこちらにも人のつながりができて、
丹さんと友人の不動産会社は、
月商7億円を売り上げるまでに成長したとのこと・・・
♪⌒ヽ(*゚O゚)ノ スゴイッ!!!スゴスギ!!!
そして、
翌1966年には、立ち食いそば店を渋谷に開業。
そば屋の名前は、「富士清」
これが、不動産屋がもってきた駅前の物件の話なのかな?
このとき、31歳、丹さんの第一守護神が回ってきていました。
丹さんの、
利益を追求せずにおいしいものを食べてもらおう、という姿勢と、
この守護神と相俟って、
これまた、大繁盛となったのですね。
ところが・・・・
1972年、B型肝炎発症。
丹さん、37歳、壬子年・・・
丹さんは、戌亥天中殺で、子年もまだガタガタする運気。
おまけにこの年は病人の星・天胡星が回ってきていました。
丹さん、中年運も天胡星ですね。
しかし、
この病気のおかげで、健康には注意されているようですね。
丹社長は経営者にしては珍しいほど温和な人柄だ。
しかし一方で、自分自身には非常にストイックな一面も併せ持つ。
特に自分の健康管理においてはこの上なく厳しい。
毎朝の日課は腹筋20回。
朝食にはバナナ1本。
タバコは一切吸わない。
接待の時は付き合いで余分に食べなければいけないことを意識し、
普段から粗食を徹底している。
このような生活を若い時から実践してきた。
さらに40代の時は、100日間にも及ぶ“断食”を敢行したという。
「まず毎朝6時に起きて20kmのランニングをしました。
その後、梅干しひとつを食べて、お茶を飲みました。
午後の3時には大豆ハンバーグを食べました。
とにかく超人的に健康な人間になりたかったのです」と丹社長。
「もともと一度やり始めたら粘り強い方」と自認する丹社長は、
健康管理においてもビジネスにおいても、やり続ける持続力を自身の真骨頂としている。
http://in-shoku.info/foodfighters/vol51.html
前編①で書きましたが、
丹さんは、ご自分のことをよくわかっておいでですね。
「私はどちらかと言うと、ひとつのことに集中して粘り強く続けられるたちです」
ご自身の日干支が「乙未」だとわかっておられる感じですね。
そして、このころ、
丹さんの人生の分岐点、
「甲癸の境目」もきていました。
体を壊した丹さんは、不動産会社を退社し、
ダイタンフード㈱を設立。
そして、店を24時間営業にしました。
それは、
丹:僕が上京したての頃は泊まるお金がなくて、
そば屋に入ったのね。
店のTVで力道山やシャープ兄弟の試合を見て時間を潰してたんだけど、
店のばあさんから「お兄ちゃん、もうそろそろ閉めるから出て行ってちょうだい」って言われて、
上野のベンチで寝るわけ。
あの時は寂しかったねー。
丹:そう。今でも24時間やっていると、随分そういう人が来るんだよ。
この間も男のコがスーパーで買ってきたおかずを隅で食べてたの。
かわいそうだから、
従業員に「熱いスープを丼一杯持ってってやりなさい」と言ったら、
喜んで食べてたね。
やっぱり東京は地方から出てきた人が多いから、
家賃を払うのに精一杯な人も少なくないでしょ。
―お店的には、あんまり長居されても困りますよね?
丹 困るは困るけど、「出てってください」とは絶対に言わない。
お互い様だから。
従業員にも「冷たくしちゃダメ」と言ってるよ。
いつかまたね、いいお客になるんだから。
http://news.livedoor.com/article/detail/12283459/
これが、丹社長の原点なのですね。
セブンイレブンよりも早く24時間営業にして、
夜泊まるところのない人の居場所を作ったのですね。
人(--*)感謝(-人-)感謝(*--)人
サラリーマンの月給が四万ぐらいの時代に、
毎月100万円儲かったそうです。
(twitter 富士そば一号店オープン時の思い出)
1980年代にお店は、10店を超え、社長1人では管理しきれなくなり、
そこで「現場は社員に任せよう」ということで、
1988年にグループ会社に分社化。
社員に大幅な権限委譲をしたそうです。
丹社長は、不動産業で大成功して、
月に500万円の収入があり、
やることは、遊ぶことを考えるだけ・・・となったときに、
ものすごい空虚さを感じられたのではないでしょうか・・・・
これではつまらない、と・・・・
そう、
「遊び」では、人は充実感を得られないのです。
だから、丹社長は、
まず、人を信じて、
そして、人に仕事を与え、安定した給料を与えて、
従業員の生活の基盤をしっかりさせるようにしたのです。
丹:昔から母に言われてたの。
「お金が欲しいなら、独り占めしちゃダメ。
みんなに分けてやる精神がないと絶対に大きくなれない」って。
だから富士そばでも、前年よりよければ給料を増やしなさいと言ってるのね。
それさえしっかりしていれば、
僕がどうのこうの言わなくても、みんな一生懸命やってくれる。」
http://wpb.shueisha.co.jp/2016/11/15/75095/
丹社長の信条は、「儲かる」という文字にある。
「儲」は「信ずる」+「者」
だから、「人を信ずる人間が儲かる」
∑o(*'o'*)oなるほど!
twitter bot @tan_michio 2016・11・13
でも、ぼくが出入りしているレコード会社は五十歳で55万とか言ってたけど、
うちはそんなもんじゃないもんね。
常務で100万円とってる人、いっぱいいる。
(自社の給料について)
同じくtwitter
従業員がよかれと思ってやっている気持ちに水を差すようなことをしたら、
従業員のやる気が失せます。
少々のことは自由にさせた方がいいのです。
丹社長のところの社是は、
「雨降りには社長は傘になれ」だそうです。
「普段は社員に任せていますが、
何かあったときには真っ先に飛んで
社員が困らないようにしなければなりません」
全店舗を年に4回のペースで回る。
社員とのコミュニケーションが目的。
しかし「接客の仕方や店の汚れをチェックするようなことはしません。
京都の和菓子を持って、『頑張ってね』と声を掛けるだけです」
「店で働く従業員の採用も店長に一任です。
店長が気に入れば、前歴、学歴、年齢にかかわらず採用しています」
「でも各店舗から入金された売上げを管理し、
社員への給与や、業者への材料費の支払い、金融機関への借入金の支払いなど
『出金の蛇口』だけは、社長が自ら、開け閉めしています」
http://www.shoninsha.co.jp/blog/2016/03/19/51410/
従業員の生活第一と考えて、
アルバイトにもボーナス・退職金を出す会社、
従業員を信じて、仕事を任せて、
何かあったら、社長が責任を取る。
立ち食いそば屋なのに、
店は椅子席、竹や石を置いた内装、
そして床は大理石、
おまけに夜を過ごす客さえ追い出さない24時間営業の店、
そういう会社だから、
従業員を信じる社長だから、
年商83億の会社に成長したのです。
「従業員が資産」と言い切る丹社長、
電通とかって会社には、「鬼の十則」というのがあるそうで、
「取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは・・・・」
「周囲を引きずり回せ」
丹社長のところと、えらい違いですね。
丹社長はおっしゃいます
「自分でもよくここまで来たなと思う。
それはやっぱり、みんなのおかげだね。
いい人に出会えたから。
頭もいいわけじゃない、体も強いわけでもない、
そんなハンパ者だから一生懸命やるしかない。
そうしたら、みんながよくしてくれたんだよね」
丹社長のこの驕り高ぶらず、
感謝の気持ちを忘れないこの姿勢。
これが、本来の日本人なんですよね。
丹社長、いつまでもお元気で!
日本の会社が、全部ホワイトになる日が来ることを祈って・・・・
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