明石家さんまさんのお嬢さんの
いまるさん。
面白い名前だなあ、って、思っていましたが、
おおたけしのぶさんの、「今を生きる」というのと、
さんまさん座右の銘「生きてるだけで丸儲け」から名付けられたそうですね。

明石家さんまさんは、
1985年8月12日に起きた日本航空JAL123便墜落事故の難を
危うく逃れています。
さんまは当日、東京のフジテレビで
「オレたちひょうきん族」の収録後
当便で大阪へ移動し
毎日放送「ヤングタウン」に出演予定であった。
だが
たまたま「ひょうきん」の収録が予定よりも早く終わったために
123便をキャンセルし
ひとつ前のANA35便と推測される便で
大阪に向かい難を逃れた。
さんまは事故当日の生放送のラジオレギュラー番組では
言葉を失うほどのショックを受け
番組をこの事故の報道特番に切り替えた。
さんまはこの事故をきっかけに
新幹線で行ける範疇の場所(東京~大阪の往復など)へは
飛行機ではなく新幹線を利用するようになる。
http://iinee-news.com/post-8620/2/日本航空JAL123便墜落事故とは
単独機としては
世界最悪の犠牲者数を出した航空機墜落事故ですね。
1985年は、乙丑年、
さんまさん、30歳で、天中殺の年でした。
えっ?
天中殺なのに、
墜落事故の難を避けられたの?
死なないで済んだの???
(゚〇゚;)なぬ?エエー???そのうえ、さんまさん、
9歳から20年間続いた守護神回りの年が終わり、29歳からは、忌神の年がスタートしています。
忌神になったのに、
さんまさんは、命拾いができました。
(゚ー゚?)(。_。?)(゚ー゚?)(。_。?)ナンデナンデ???前回、
さんまさんには、弟さんがおられたことをお話しましたが、
この弟さん、
19歳のときに火事で亡くなっておられるのですね。
◆弟は実家の火災で亡くなった。
当時弟は高校生。さんまは冠番組を持つほど人気があった。
ぼくのことを、昔から、すごく尊敬してくれるやつでね。
ぼくがいうことは、すべて正しいと思っていたみたいですよ。自分にも、それから他人にも、
素直に自分をさらけだせるやつでしたね。
ぼくもサッカーやったけど、チビのほうがすごいんですよ。
サッカー部のキャプテンで、インターハイにも出たし、国体選手にも選ばれたしねえ……。去年の10月、大阪のぼくのマンションに遊びにきたとき、
今度のワールド・カップをふたりで一緒に見に行こう。
キップはぼくが買っとくからって、約束しとったのに……。
まだ納得できません、あのチビが死んだなんて……。
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=564422916940820&id=483341671715612さんまさんのおとうさんは、
従姉妹を後妻に迎え、弟が生まれたそうです。
http://pigban.com/151.html前回は、弟は連れ子である説を採りましたが、
夜に、それも自宅で酒を飲んで、
「うちの子はこの子だけや」というのは、
もし、弟が連れ子だったら、
おとうさんにとっても血のつながらない子供になり、
別の男の子供だけが自分の子供だ、と、
それも、さんまさん兄弟が「よう泣いた」くらいに
頻繁に言う妻を、
おとうさんが許すはずがないだろうな、と、思います。
また、
さんまさんが、年の離れた弟をとてもかわいがっています。
弟ができたことを、さんまさんはものすごく喜んだそうです。
このことからも、たぶん、連れ子ではなく、
おとうさんと後妻さんとの間の子供だったのではないでしょうか・・・・・
下記の記事にも、三男とありますし・・・・
その弟さんが、亡くなったのは19歳とのこと。
http://livedoor.4.blogimg.jp/girls002/imgs/1/2/1243ce2e.jpg記事によれば、
さんまさんが、27歳とあり、
火事が4月2日の早朝に起こった、ということなので、
1983年 癸亥年のことでした。
弟さんが、焼身自殺ではないか、と、言われたのは、
工場のヒーターの火は前日11時に切られており、
煙に巻かれて逃げ遅れるという可能性もなく、
二階に寝ていた家族に知らせておらず、
三男(弟)正登さんの下着にまで灯油がべっとりと染みこんでいたことが
確認されたためなのですが・・・・
正登さんの高校時代のサッカー部の仲間が、
「自殺なんて信じられんけど、
ただ彼は
責任感が強くて、
なんでも自分で抱え込んでしまい、
自分でつらくなることが多かったんですが、
家のこともほかの兄弟が継がないから継いだけれど、
やっぱつらかったんやないやろか。
そう言えば亡くなる前に会ったとき、
『みんな大学に行けていいなあ』とか、
『サッカー続けられてええなあ』とか、
なんか寂しそうでした」
その前年の10月、さんまさんは、
正登さんが大学に行かずに、工場を継ぐために働き始めた年に、
翌年のサッカーのワールドカップを見に行こう、と、約束していますね。
また、近所の焼き肉屋の娘さん(16)
「正登さんはとてもいい人やったけど、
最近、車をすごく飛ばすようになっていた。亡くなる一週間前も、阪奈道路で飛ばしすぎて、
道路下に落ちる事故を起こしてたんや。
それに友達は、みんな大学行ってんのに・・・・
なんてため息ついていたから、
なんや元気ないなあ、と思っていたら、あの火事で・・・」
弟の正登さんは、大学に行って、サッカーしたかったのでしょうね。
だって、彼は、
「サッカー部のキャプテンで、インターハイにも出たし、国体選手にも選ばれた」
ほどサッカーがうまかったのですから・・・・
正登さん、自分の未来に、
サッカー選手、という夢を描いていたのではないでしょうか・・・・
しかし、実家は、
さんまなどの魚の加工業をやっており、
工場はかなり広く、それなりの規模のようでした。
だから、
誰かが継がなければいけない、と、正登さんは思い、
継いだのだけれど、
どうしてもサッカーへの夢は捨てきれず、
当然、仕事にも身が入らないし、辛いし・・・・
その思いを、自分一人で抱え込んで
にっちもさっちもいかなかくなったのでしょうか・・・・・
だから、
自暴自棄になり、車を飛ばして、事故まで起こしたけれど死にきれず、
一週間後に灯油をかぶって・・・・・
魚を乾燥させるヒーターから1,5メートルのところで、
工場もろとも実家を全焼させて、
正登さんは、なくなりました。
父親の恒さんは、
「家業を継いだのを苦にしてと言われるけれど、
わしはあの子に無理に継がしたことは一度もないんや。・・・・・・・・
さんまも昨夜遅うやってきて、泣いてました。
あの子も、今度のことは自分の責任みたいな気持ちで
いるんやないんですか・・・・」
実は、この記事に、
いま、さんまの両親、祖父は、
焼けた自宅すぐ近くの長男夫婦宅に身を寄せているとあります。
(゚゚;)エエッ?さんまさんのおにいさんの正樹さん(長男)は、
地元の、実家のすぐ近くに住んでいるというのに、
なぜ、家業を継がなかったのでしょう・・・・・
杉本家の長男なのに・・・・・ヾ(゚0゚*)ノアレアレー?キーは、正登さんの実母の、継母さんですね・・・・
杉本家の家業と工場などの財産を、
すべて、自分が腹を痛めた子供に継がせたかった・・・・・父親は無理に継がせようとはしていないけれど、
実母が、そう仕向けていた・・・・・
実母の頼みだから、正登さんは断れなかった・・・・
実母がさんまさん兄弟を嫌っていたことも、よくわかっていた・・・・
だから、父親にも言えず、
ましてや、さんまさん兄弟に相談もできるはずもなく・・・・
相談したら、実母が責められるかもしれない・・・・
その結果、
正登さんは、サッカーの夢を諦めるしかなく、
継母は、
正登さんの大学進学とサッカー選手への夢を潰して、
実家を継がせたのではないのでしょうか・・・・正登さんが、夢破れて帰ってくるまで待っていたら、
実家のすぐに住んでいる長男が、家業を継いでしまうかもしれない、
だから、大学にも行かせず、
高校卒業と同時に、家業を継がせてしまった・・・・・すみません・・・・
ペコリ(o_ _)o))妄想が膨らんでしまいましたが・・・・・
正登さんは、この工場があるからいけないんだ、と、思ったのでしょうね、
広い工場が全焼ということは、
工場のあちこちに灯油をまいて、
そして自身も灯油をかぶって、なくなられたのではないでしょうか・・・・
この1983年は
癸亥年、
さんまさんにとって、60年に一度の自分の日干支が回ってきた年でした・・・・
「律音」と言いまして、
自分の人生を新しく始める年でした・・・・
・・・・溺愛していた弟を失ったショックに、
番組でも笑いがとれなくなってしまったそう。
本気で芸人を辞めようと考えたこともありました。
そんな窮地を救ってくれたのが、同期である
オール巨人さん。
共演した舞台の上でさんまさんに
「お前んち、兄弟焼いたらしいな」と際どいボケ。本来なら怒ってもおかしくないこのボケですが、
さんまさんはこれがオール巨人さんの励ましだということに気づき、
「そや、材木きれたから代わりに焼いたんやと、そのボケに乗りました。
舞台はそれまでにない一番の盛り上がりを見せたのだそう。
さんまさんは、後に
「ありがとう。これで芸人やめんで済むわ」と
オール巨人さんに感謝したそうです。
http://grapee.jp/211508/2さんまさんは、
この年、改めて、
自分が「芸人」で生きることを心に誓ったのではないでしょうか。
1985年5月、第1回東京国際映画祭において、タモリとともに司会を務め、
「ソフィー・マルソーに知っとるケ」などと言って司会をして、
新聞紙面上で非難されたのですが、
当時のレギュラーだった金曜日・笑っていいとも!でトークのネタにして、
タモリといっしょに「始末か!オレたちは!」と叫んで
挙手をしながら「私がやりました!」と言って、
まさに、さんまさんは
「芸人」に徹したのです。
そして、さんまさんの人気は、
年運の天中殺も手伝って、うなぎ登り・・・・NHKが1975年から2003年にかけて毎年実施していた好きなタレント調査では、
1985年に男性1位に選ばれてからは、
2003年に調査終了するまでの19回のうち通算12回
(1985年 - 1989年、1995年、1998年 - 2003年)で男性1位を獲得、
それ以外は全て男性2位となっている。
1999年に「日本で最も露出の多いテレビスター」として
ギネスブック世界記録認定。
(wikipedia)
そして、起こったのが・・・・・
1985年8月12日、日本航空JAL123便墜落事故・・・・・
さんまさんは、本当に幸運なことに、
一便早い飛行機に乗ることができたのです・・・・・
さんまさんは死なずに済みました・・・・・
乙丑年で、さんまさん、天中殺の年・・・・
おまけに、前年から、忌神回りだというのに・・・・・
さんまさんの命式には、
守護神であり、人生のテーマである兄弟が、
第二守護神なのですが、第一番目の場所にあります。
おにいさんの正樹さんは、
デビューしたてのさんまさんが出演している
大須演芸場たった一人の観客だったそうです。
さんまさんの出番が終わったあと、食事をする約束だったのに、
おにいさんは、いつまで経っても現れない。
おにいさんは、演芸場のたった一人の観客なので、
あとに演じる芸人さんが終わるまで、
悪くて席を立つことができなかったそうです・・・・
優しいおにいさんですね。
o(*^▽^*)oさんまさんが、売れない時代を支えてくれたのが、
おにいさん、正樹さん・・・・そして、
日航機事故のときに、
一便早く飛行機に乗せたのは、たぶん・・・・・
さんまさんが、大事な弟として、かわいがってきた
弟・正登さんではないでしょうか・・・・だって、
弟の正登がいるから、自分たち兄弟はいじめられる、
この弟が原因なんだ、と、逆恨みして
弟に辛くあたったって、おかしくはない状況なんです。
弟の正登さんだって、
8歳、10歳違いのお兄さんたちが
実母から完全無視されて、話しかけてももらえないことを
体験して知っているはずです。
でも、さんまさんは、この弟をかわいがったのです。
弟の正登さんも、
さんまさんのことをすごく尊敬して、
さんまさんの言うことは、すべて正しいと思っていた・・・・・
その大事な兄の未来が断たれようとしたとき・・・・
守護神である弟が兄に力を貸したのではないでしょうか・・・・たぶん、きっと、きっと・・・・
☆+。:.゚ヽ(*´∀`)ノ゚.:。+゚ (*´∀`*)ノ。+゜*。☆さんまさん、これからもがんばってくださいね。
大好きです♡♡♡(〃'∇'〃)エヘヘ
応援してます♥♥♥
次回は、大竹しのぶさんとの相性を探ってみたいですね。
では・・・・
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