本能寺の変での明智光秀の謀反は、信長の部下人事の失政「信盛追放」がその大元だった?
- 2017/11/29
- 20:25
織田信長といえば、本能寺の変ですが、
明智光秀がなぜ謀反を起こしたのか、その理由を、
信長の人事のやり方がまずかったのでは、と、いうのがありまして、
《人事制度で解く織田信長の天下布武》
2012/10/2 城繁幸
人事コンサルタントをやっている城氏からみると、
明智光秀が信長をやるしかない、と、思った理由は、
佐久間信盛、林通勝らの古くからの重臣を
本能寺の変の2年前の1580年に追放したことがきっかけではないか、というものなのです。
御説を見ていきましょう・・・・
《実は叩き上げだった信長》
〉〉〉戦国大名と言っても、実はいくつかのタイプに分類できる。
1.室町幕府の守護大名
足利将軍家に任じられた正統な大名家。
武田、今川、朝倉、九州の島津といった大名家がこれにあたる。
特徴として、他の大名家をバカにして、家柄を誇る傾向がある。
そして当然ながら、自らの権威の源泉である将軍家への忠誠もあつい。
2.守護代が成りあがった大名
守護大名は偉いので、日常業務は部下に丸投げする人が多かった。
最初の内はそれでもよかったが、
権威の源泉である室町幕府がヨロヨロになってくるにつれ、
部下も「なんでこんな毎日食っちゃ寝ばかりしている人に仕えなきゃならんのだ」と思うようになるのは当然で、
やがて日本中で部下達が領地を乗っ取って独立するようになる。
三好、長宗我部、長尾(後の上杉氏)、そして織田などが代表。
3.よくわからない人が国を取ってしまった大名
室町も末期になるとなんでもありの時代になり、
守護代ですらより下の人達に乗っ取られるようになった。
守護代の側近くらいならまだマシで、
中には出自が良く分からない大名も多い。
小田原の北条早雲と美濃の斎藤道三が有名だが、
実は徳川家もここに該当する。
戦国大名にも保守的な人から革新的なタイプまでいろいろあるが、
だいたい上記の分類で上に行くほど保守的で年功序列を重んじ、
下に行くほど革新的で形式にこだわらないタイプが多い。
当然と言えば当然で、
己の実力で勝ち上がった人ほど、他人の権威はあてにしていないということだろう。
ところで、
上で織田家は守護代出身の2番目グループと書いたが、
信長についてはここにあてはまるかは微妙なところ。
実は織田家といっても色々あって、
信長はその中の清州織田家という家の、さらに家老の家柄にすぎないのだ。
要するに守護の部下の部下の部下くらいの家柄にあたる。
しかもそんな小さい家ですらすんなり世襲できず、
兄弟と血みどろの争いを経た上でようやく当主に就いている
(最終的には弟を殺害)。
要するに、
信長という人は世襲というよりほとんどゼロから実力で叩き上げた人で、
タイプとしては限りなく3番に近いということだ。
ところで、
信長の外交関係をみると、面白い事実が見えてくる。
義父である斎藤道三、
唯一の盟友である徳川家康、
初期の同盟者であり妹の嫁ぎ先である浅井長政等、
仲の良い大名はみんな3番グループに属する。
一方、武田、今川、朝倉といった守護大名とは
のきなみ敵対関係にある。
恐らくは同じように実力で這いあがってきた人には親近感を抱く半面、
権威を世襲しているような人には
一種のコンプレックスを抱いていたのではないか。
【中途採用エリートの楽園】
〉〉〉さて、そんな弱小織田家だが、
信長の出現で一気に勢力を拡大していくことになる。
ここで一つの問題が発生する。
深刻な人材難だ。
もともと中小企業で細々とやっていたのが、
突然上場して従業員数が十倍になったようなものだから、
家中に人材なんているわけがない。
また、織田家は信長以外ロクな人材がいないことでも有名で、
一族もまったくあてにはならない。
というわけで、
信長は積極的に中途採用をすすめることになる。
そして明智光秀、滝川一益、荒木村重といった中途採用者を、
代々の家臣以上に重用していく。
また、羽柴秀吉のような身分の低い人間であっても、
優秀であればどんどん抜擢もする。
こんなところにも、
彼の型にはまらない価値観がよくあらわれていると言える。
以前も述べたように、織田家というのは
スキルを武器に大名家を渡り歩く中途採用者にとってはパラダイスだったはずだ。
【職務給型組織への大転換!】
ところで、中途採用者にとって天国ということは、
裏を返せば年功色が薄いということでもある。
近畿を制圧し、安土城を作った後になって、
信長は林通勝、佐久間信盛の二名の重臣を突然追放している。
いずれも父の代から仕えた老臣で、家中の重鎮的存在だった。
理由は、佐久間に出した書状にはっきりと述べられている。
「おまえはこれだけの地位にありながら、ほとんど働いていない。
光秀や秀吉を見習ったらどうだ」
ちなみに、
佐久間信盛は近畿地方の軍団長的存在だったが、
彼の追放後にそのポストについたのは、他でもない明智光秀だ。
本能寺の変の2年前のこと。
組織の新陳代謝のためには、
古い部分を切り捨てなければならないということだろう。
考えてみれば、これは現在の日本企業が直面する課題と同じだ。
どの経営者も腹の中では
「もう年功序列じゃいかん、年功によらず抜擢しないと組織は生き残れない」
なんてことは痛いほどわかっているが、
思い切った人事制度改革には踏み込めていない。
理由ははっきりしている。
年功によって最大の恩恵を受けているのが自身であるとよく分かっているからだ。
抜本的改革は、自らの権威をも否定することでもあるのだ。
日産ルノーのゴーン氏しかり、
(企業再建のプロと言われる)日本電産の永守氏しかり、
「外からやってきた人にしか日本企業の改革はできない」と言われる理由はこれである。
逆に言えば、
弟を殺して当主に就き、そこから叩き上げて天下統一までこぎつけた信長からすれば、
心おきなく「いらない奴」をクビにできたわけだ。
佐久間信盛『長篠合戦図屏風』(成瀬家本)より
・・・・ここで、佐久間信盛が首になった理由が書いてある、
信長が出した19ヶ条の折檻状を見てみましょう。
一、佐久間信盛・信栄親子は
天王寺城に五年間在城しながら何の功績もあげていない。
世間では不審に思っており、
自分にも思い当たることがあり、口惜しい思いをしている。
一、信盛らの気持ちを推し量るに、
石山本願寺を大敵と考え、戦もせず調略もせず、ただ城の守りを堅めておれば、
相手は坊主であることだし、
何年かすればゆくゆくは信長の威光によって出ていくであろうと考えていたと。
さて言わせてもらおうか。
武者の道というものはそういうものではない。
勝敗の機を見極め一戦を遂げれば、
信長にとっても佐久間親子にとっても兵卒の在陣の労苦も解かれてまことに本意なことであったのに、
一方的な思慮で持久戦に固執し続けたことは分別もなく浅はかなことである。
一、戦いで期待通りの働きができないなら、
人を使って謀略などをこらし、
足りない所を信長に報告し意見を聞きに来るべきなのに、
五年間それすらないのは怠慢で、けしからぬことである。
一、信盛の与力・保田知宗の書状には
「本願寺に籠もる一揆衆を倒せば他の小城の一揆衆もおおかた退散するであろう」とあり、
信盛親子も連判している。
今まで一度もそうした報告もないのにこうした書状を送ってくるというのは、
自分のくるしい立場をかわすため、あれこれ言い訳をしているのではないか。
一、信盛は家中に於いては特別な待遇を受けている。
三河・尾張・近江・大和・河内・和泉に、
根来衆を加えれば紀伊にもと七ヶ国から与力をあたえられている。
これに自身の配下を加えれば、どう戦おうともこれほど落ち度を取ることはなかっただろう。
一、水野信元死後の刈谷を与えておいたので、家臣も増えたかと思えばそうではなく、
それどころか水野の旧臣を追放してしまった。
それでも跡目を新たに設けるなら前と同じ数の家臣を確保できるはずだが、
1人も家臣を召し抱えていなかったのなら、
追放した水野の旧臣の知行を信盛の直轄とし、
収益を金銀に換えているということである。
言語道断である。
一、山崎の地を与えたのに、信長が声をかけておいた者をすぐに追放してしまった。
これも先の刈谷と件と思い合わされる事である。
一、以前からの家臣に知行を加増してやったり、与力を付けたり、新規に家臣を召し抱えたりしていれば、
これほど落ち度を取ることはなかったであろうに、
けちくさく溜め込むことばかり考えるから今回、天下の面目を失ってしまったのだ。
これは唐・高麗・南蛮の国でも有名なことだ。
一、先年、朝倉をうち破ったとき(=刀根坂の戦い)
戦機の見通しが悪いとしかったところ、
恐縮もせず、結局自分の正当性を吹聴し、あまつさえ席を蹴って立った。
これによって信長は面目を失った。
その口程もなく、ここ(天王寺)に在陣し続けて、その卑怯な事は前代未聞である。
・・・・石山本願寺を攻めるのに、攻めることもなく、
ただ、5年も天王寺城に居座っただけで、
最後は、信長が朝廷の威光を頼んで終結したんだ、
佐久間は何もしてないじゃないか、と・・・・
それで、城氏は、続けてこう分析されます・・・
【織田成果主義が崩壊したワケ】
ただ、彼のしがらみの無さは、家中に静かな動揺をもたらした。
そして彼自身、想像もしなかったような形でそれは顕在化してしまう。
そう、本能寺の変だ。
「このままいけば織田家の天下統一は間違いない。
でも、仕事が無くなったら、戦自慢の俺たちはどうなるの?」
という疑問は、光秀でなくとも抱いただろう。
「いやあおまえたち、これまでよく頑張ってくれたね。
長年の年功に応じて所領を分配するから、これからはゆっくり茶でも飲んで暮らしなさい」
なんてことを信長が絶対に言わないであろうことは、
家臣ならみんなよく分かっていたはず。
こうして、中途採用エリートの出世頭である
明智光秀の謀反につながるわけだ。
そして、もう一つ、
彼の成果主義には負の影響があった。
彼の死後、織田家は他に例をみないほどのスピードで崩壊する。
一応、(あまり出来のよろしくない)子供をそれぞれ担いで
派閥争いという形を取ってはいたが、
その後の家臣の争いは完全な覇権争いだ。
事実、その争いを制した羽柴秀吉は、名実ともに天下人としての道を歩むことになり、
かつて担いだ信長の嫡孫は田舎にポイ捨てされてしまった。
織田家は、年功序列という価値観が全否定された稀有な組織だ。
だから信長という最強のストッパーが外れた後、
誰も彼の「年功の残り」を担ぐ人がいなかったのだろう。
そういう意味では、本能寺で信長が死んだ瞬間に、
織田家も滅んだと言えるかもしれない。
その後は「佐久間信盛」が大軍を持って包囲戦と
「包囲戦」事態は、「信長」の意向です。
彼が担当してから「5年」で終結していて、
「秀吉の播州征伐」「勝家の越前攻め」も4~5年かけており、
その「朝廷」との交渉をしたのも「佐久間信盛」で
戦、外交とがんばっているように見えます。
一、こうなればどこかの敵をたいらげ、会稽の恥をすすいだ上で帰参するか、
どこかで討死するしかない。
一、親子共々頭をまるめ、高野山にでも隠遁し連々と赦しを乞うのが当然であろう。
右のように数年の間ひとかどの武勲もなく、未練の子細はこのたびの保田の件で思い当たった。
そもそも天下を支配している信長に対してたてつく者どもは信盛から始まったのだから、
その償いに最後の2か条を実行してみせよ。
承知しなければ二度と天下が許すことはないであろう。
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