〈渦中の人、日本ボクシング連盟の山根明会長が
本誌「週刊新潮」の取材に応じたのは8月5日。
場所は大阪市内の自宅で、妻の智巳さん(51)も同席した。
ホワイトグレーのスーツにティアドロップのサングラスという格好の山根会長は
身振り手振りを交えながら、自らの半生を初めて明かしたのだった。〉
〉〉〉僕の母親は韓国人で釜山出身なんですけど、
神戸で育って、神戸で女学校まで行ってます。
お嬢さんでしたからね。
で、日本で僕を産んだのですが、
終戦の後、事情があって、父親を日本に残して、母親と一緒に釜山に渡ることになった。
・・・この話の通りに、
神戸で育って神戸の女学校まで出た母親であれば、
日本語に不自由はなく、
その母親に、日本で小学校にあがるまで育った
山根氏の基礎言語は、日本語のはず・・・
韓国にいたのは、6歳から10歳まで四年間であれば、
逆に、韓国語のほうが外国語になるのが普通・・・
ですが、
彼の発音には朝鮮語の発音がよく混じるし、
日本語が考えながらでないと出てこない様子を見ると、
日本で生まれて日本に6歳までいた、
そして、母親は女学校まで出たお嬢さん、というのも、
本当だろうか、と、首をひねりたくなりますね・・・
おまけに、父親の国籍は明らかにしていません。
もし、父親が日本人であれば、
山根氏は、生まれたときから日本国籍になるはず・・・
山根氏が帰化したのは、昭和55年(1980年)です。
41歳の時です。
つまり、山根氏は、
韓国人の両親のもとに生まれて、韓国に育ち、
そして、密航してやってきた不法入国者ってことかな?
〉〉〉でも、6歳の時に離れたもんだから、毎日、親父が恋しくて恋しくて。
だから10歳の時に不法入国、密航した。
・・・山根氏の父親は、昭和20年、
たぶん、終戦後に日本に来たのではないでしょうか・・・
当時、焼け野原になった日本の土地に囲いをして、
朝鮮人が自分のものだと主張して乗っ取ったという事もありましたし・・・・
推測ですが・・・
〉〉〉魚取る小さなポンポン船にお金渡してね。
でも捕まってしまって大村収容所に入れられて、釜山に強制送還された。
そして、その数カ月後にまた密航して、また捕まってしまうのです。
ただ、この2回目の時は、親父の人脈で、
大阪の岸和田出身で郵政大臣までした
松田竹千代いう国会議員にお世話になって、
保証人になってもらって収容所から出られた。
その後は日本にそのまま定住しました。
辛かったですよ、そりゃ。
僕はアマチュアスポーツやってますからね。
当時なんかは差別がいっぱいあった。
「朝鮮人、朝鮮人」って周りに言われましたね。
・・・え? あれ?
朝鮮人に「朝鮮人だ」って言って何がいけないのかしらね?
そんなに「朝鮮人」は恥ずかしい民族なのかしら?
朝鮮人として、堂々と、胸張って、いればいいのではないかしら?
よっぽど、朝鮮人って、悪いことしたのかしら・・・・ネ?
アメリカ人だって、ヨーロッパの人だって、
自分の国籍を言われて「差別だ!」なんて思わないよ!
「(゚ペ)変ダヨネ?
〉〉〉だけど僕は日本人になって、連盟に入りました。
僕はね、日本国の日の丸大好きなんですよ。最高に愛しています。
だけど同時に韓国、北朝鮮愛してます!
スポーツには国境がありません。
〉〉〉日本に帰化してから40年近くになります。
帰化する時には、ボクシングの関係で知り合った
10人ほどの大学の先生に保証人になってもらいました。
・・・10人もの保証人が必要って・・・???
よほど、信用がなかったみたいですね・・・・
〉〉〉あと、その時に中山正暉(まさあき)いう衆議院議員の先生にもお世話になった。
僕は中山先生のボディーガードも長いことしてたんですよ。
推薦状などの帰化の書類は
中山先生の秘書の原田さんが法務局に出してくれて、
それでオーケーになりました。
〈梁石日の『血と骨』もかくやという人生はそのようにして始まったわけだが、
彼の帰化に協力したという当の中山正暉元代議士は、
「原田という秘書は確かにおりましたけれど、
いろんな方が来られたものですから、ちょっと分からないですね……」〉
〉〉〉ボクシングとの関わりは、そもそも、親父がボクサー上がりですからね。
親父は戦後、大阪の堺市のボクシングジムのオーナーをやっていまして、
僕は10歳の時に密航で日本に戻って、
12歳から本格的にボクシングを始めました。
〉〉〉結婚歴は、籍を入れてないのも含めると4回。
最初の嫁さんは今里の塗装会社の娘さんだった。
金融とか不動産とかも扱う会社のお嬢さんだったね。
息子の昌守はこの最初の奥さんとの間にできた子供です。
23歳の時から同棲して、
25歳で結婚して6年間嫁さんの実家で暮らしてから離婚しました。
その期間は、嫁さんの実家の塗装会社の工場で働いていたのですが、
その後は、ずっとボクシングボクシングで、いつも奥さんに面倒を見てもらっていた。
・・・息子・昌守氏の帰化の時の名字を見ると、
最初が「文」で、次が「金」、次が「文沢」、
そして最終的に「山根」
「お嬢さん」???
〉〉〉連盟に関わる前、
僕は近畿アマチュアボクシング連盟と韓国との交流の橋渡しをやっていました。
僕がアニキと慕っている親族が韓国アマチュアボクシング連盟の副会長で、
釜山連盟の会長をやっとった関係で、
日韓のことを全部サポートさせていただいた。
具体的には、近畿チームが韓国に行く時に僕が同行して面倒を見る。
韓国チームが日本に来た時には、案内役から運転手から買い物まで、何でもこなしていました。
〉〉〉2番目の奥さんには、
もう、迷惑どころの騒ぎじゃないくらい迷惑かけましたね、ボクシングで。
帰化したのもこの奥さんの時で、
今、僕が名乗っている山根という姓はこの奥さんの姓なのです。
最初の奥さんと離婚して家出た時、息子はまだ5歳でね。
行くところがないので、6カ月間、息子と2人で車の中で寝起きしてました。
それから、後に2番目の奥さんになる彼女のアパートに行って、
無理を言って息子と一緒に寝かしてもらうようになった。
〉〉〉2番目の奥さんとは31歳の頃に結婚して、20年近く一緒におりましたかね。
結婚してから、彼女は、大阪の西中島のマンションの1階で喫茶店を始めました。
ただ、僕があんまりにも金持ち出すんで、途中からはスナックもやり出した。
とにかく、僕が海外遠征するたびに金を持ち出すもんやさかい、
ある時、「ボクシングをやめてくれ」と言われてね。
「私も年取ったら生活していかんならんから」って。
そしたら息子がね、
「親父に道楽させてくれ。年取ったら俺が全部面倒見るから。
親父の思い通りにさせてやってくれ」と言ってくれてね。
でも、そんなやり取りを十数年も続けていたある時、
海外から帰ってきたら店も荷物もなくなってて、
本人も行方不明になってしまった。
〉〉〉3番目の奥さんとは籍は入れませんでしたが、
20年くらいは一緒に住みましたかね。
ただ、その間は息子からお金を貰ってボクシング関係をしていました。
アマチュアボクシングは息子なしではできなかった。
サラ金からの借金も2億円くらいありましたけど、息子が全部整理してくれました。
〈山根家の関係者が言う。
「1997年頃から現在までの約20年間、
山根会長の金銭面などの面倒を見てきたのは、息子の昌守氏です。
彼は17歳の時に家を出て、20代で自動車販売会社を立ち上げて成功し、金があった。
その彼が電気、ガス、水道はもちろん、毎月10万円を山根会長に渡し、
奥さんにも、その都度、数十万円を出してあげたりしていた。
昌守氏は親の七光で連盟の副会長をやっているように報道されていますが
実態は逆で、息子のほうが父親の面倒を見てきたのです」
2番目の奥さんが出奔して途方にくれていた山根会長に
大阪・十三(じゅうそう)のマンションを買い与えて住まわせたのも昌守氏で、
「父親が連盟の会長に就任した後は、
2千万円で十三に一軒家を建ててあげ、700万円のロレックスや、
同じく700万円のマイクロバスの他、ベンツもプレゼントしている。
ただ、山根会長の4番目の奥さんは
今里新地で韓国クラブを経営していて金があるため、
昌守氏に金を無心することはない」(同)
〉〉〉今回、取材に同席した4番目の妻の智巳さんは山根会長への思いを、
決して流暢ではない日本語でこう語った。
「はじめは会長、私に同情の気持ちで、
女を助けてあげたいと思とる気持ちだったんですけど、
それがだんだん愛に変わったということデスネ。
私は山根明会長を最後まで守る、最後の女ダカラ。
この男はカネもない、歳もいってはる、
でも私が見てきたこの世の中の男の中で、一番、男の中の男だと思っています。
こういう人こそ支えてあげたい、最後まで」〉
〉〉〉この人(智巳さん)と結婚してからも、
40歳と46歳の彼女がおって、ずっと関係あったんですよ。
男は口じゃないです。
やっぱり心でおったら自然と惚れてくれるんです。
僕は飲み屋に行って女性をさすったことありません。
相手側から食事と言われても、自分から手も握ったりそういうこともしてませんから。
・・・二人も愛人作っていて、
「手も出さない」って、どの口がおっしゃるのかしらって思いますが・・・
長くなりましたので、②に続きます・・・
②は9月3日の午前に投稿予定です。